ミシマ社の雑誌 ちゃぶ台 Vol.3 「教育×地元」号
土曜の昼、貯水槽が並んだマンションの屋外スペースで、マックのポテトを食いながら不貞腐れていた。イライラしながらポテトを掴んで、口の周りをヌルヌルにして遠くを見つめると、プラネタリウムの丸い屋根がやけに馬鹿っぽくて、またイライラした。とにかく、午後からの部活に行きたくない。くそバレー部のことを思えば、胸が体育館のあの床のように、キュッキュッとなった。
入学して間もない頃、校内の各部がそれぞれの出し物で新入生を勧誘する行事があって、バレー部がその中で1番砕けた雰囲気で優しそうだった。入部届けを出した時、顧問の「頑張ろうな」という力強い言葉と分厚い手のひらが頼もしかったし、商店街のスポーツ用品店でバレーボールシューズを買った時は、まだやる気に満ちていた。練習初日、話が違った。とにかく体育館全体がピリピリしていて、微弱電流治療が盛んな接骨院さながら、居るだけで体の悪い部分が良くなりそうだった。それから、憂鬱な日々を受け止める日々。こぼれ落ちては転がっていく幸せ。コロコロコロコロ、走りまわって球を拾っては、また走った。時計の針ばかり見ながら、時間よ行け、俺を置き去りにして先に行け、と念じた。隣には女子バレー部のコートがあって、他校のヤンキーと付き合っている1番人気の副キャプテンがワキガという噂は本当なのか。フラれた腹いせに男の方がめちゃくちゃなことを言ってるだけじゃないのか。確かめようと鼻をきかせても、すでに体育館全体に充満したゴムと汗の臭いがしかない。
なによりも、バレー部員として致命的なのは、スパイクが打てないことだった。それは、サビを歌えないボーカリストのようなもので、どうしようもない。先輩に教わった通りのタイミングで跳んでも間に合わないのに、先輩に教わった通りのタイミングを無視して跳んでも間に合わない。何度跳んでも、ボールは指先をかすめていった。何もできず、ブサイクに着地した後に肩を落とすのも面倒になってきて、スパイクを打つことを早々に諦めた。それは、サビのない淡々としたフォークソングを歌うフォークシンガーになることを決めた瞬間だった。準備体操と球拾い以外の楽しみはサーブ練習で、スパイクに比べると、まだ可能性があった。ときどき、自分でも驚くような速度でネットすれすれをいくボールを見送るときは、得体の知れないモヤモヤに復讐できたようで胸がスッと軽くなった。
週末は、補欠部員として他校まで対外試合に出かけた。それは、自分にとって何の驚きも発見もない、「大概」試合だ。
横一列、コートに整列させられた補欠部員は、大声を出してレギュラーメンバーを応援する。1番大きな声を出している補欠部員から順に呼ばれて、「思い切って行け」と仰々しく顧問に発破をかけられて、1発だけサーブを打つ。通称「思い出サーブ」。作ってもらった弁当、水筒のポカリ、いくらかの交通費。親が用意してくれたそれらと引き換えに、結果を左右しないどうでもいい場面に出ていって打つサーブは、なんとも惨めな気持ちにさせられる。打っているのか打たれているのかわからなくなるほど、手のひらがジーンと痛かった。ある日、いつも通り試合前の練習中、レギュラーメンバーのレシーブ練習の為、スパイクを打つ顧問にボールを渡す係を担当していた。練習も終盤に差しかかった頃、何かの拍子にバランスを崩してボールをうまく渡せずに顧問にぶつかってしまった。ボールが転々とするなか、鬼の形相で顧問に怒鳴られた。その日、いつも通り補欠部員が思い出サーブを打っていく中で、最後まで自分の名前が呼ばれることはなかった。悔しくて悲しくて、横で大声を出している仲間の補欠部員がいつにも増してバカに見えた。体育館のスミで小さくなって、いつまでも突っ立っているだけの自分はもっとバカなのに。
あれから大人になって、やりたいことで生活をしながら、ずっとレギュラーメンバーとして真ん中に立っている。ライブ前に客電が落ちて、大歓声があがる。その瞬間、あの顧問に復讐したような気持ちになる。「思い切って行け」そんなのお前に言われなくてもわかってるよ、と毒づいてステージへ向かう。
ちゃぶ台は自分にとっての学校。あの頃置いてきたものを取り返す学びの場所で、新しくて懐かしい匂いがする。