『牛を屠る』(佐川光晴 著)

『牛を屠る』(佐川光晴 著)

 子供の頃、外食をすれば口の中にはよく肉が残った。

 週末になると、自転車で15分程行った所にある駅前のステーキハウスに家族で出かけた。ソースと油と微かな血が鉄板の上に作る水溜りは、薄暗い洞窟のような店内によく似合っていた。使い込まれた木のテーブルの端には油でしんなりしたメニューがあったけれど、いつも決まってサイコロステーキを注文する自分には必要がない。肉の横に申し訳なさそうに添えられたモヤシがいつも邪魔だった、とどうでも良い事を思い出す。

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 いつまでも噛みきれず、飲み込めず、かと言って吐き出すわけにもいかず、ガムのように噛み続ける。ゴリゴリした脂肪や筋の周りを、それとなくウロウロしている歯が何だか頼りない、途方もない。もう完全に飲み込む事を諦めてしまって、逆に、肉に飲まれている。それでいて、大の野菜嫌いなのだから救いようがない。

 そうこうしてる間に、ソースの味や匂いはとっくに消えてしまい、油で滑る口の中に、うっすら獣の臭いさえもが漂ってくる。肉だっていつまでも待ってはくれない。時間切れ。知らなくても良い事実が口の中いっぱいに広がる。こうなるともう駄目だ。隠し事がバレてしまう。圧倒的な生き物の臭い。

 今頃噛んでいるはずだったブルーベリーの板ガムは、横で弟が噛んでいる。思わずあの包み紙の感触を思い出して、指先がカサカサして、それごとギュッと手を握った。とにかくこれを終わらせなければ次には進めない。

 さっきから、「まだ食ってるのか、飲み込めなかったらもう出しなよ」という父親の言葉を待っているけれど、もしかしたら弟と同じように、ガムを噛んでいるものだと勘違いしているのかもしれない。肉なんだけどな。だって、かなり渋い顔してるでしょう。小学生がこんな顔でガム噛まないでしょう。

 大人になったはずの今でも、タイミングを逃して上手に飲み込めない出来事が多々ある。そんな事の方が多い。もしかしたらそれらは、これの名残かもしれない。ダラダラやっているうちに家に着いて、飲み込む勇気も吐き出す勇気も無かったのに、玄関で靴を脱いだ途端、なぜだか許されたような気がして抜きとったティッシュに吐き出した。手の中で生暖かい肉は生きているようで、不気味で、申し訳ない気持ちになった。いつの間にか口の中で肉が生き返ってしまった、ような気がした。死んでいたボロボロの肉が恨めしそうに「お前がちゃんと飲み込まないからだ」という熱をもってる。

 今までずっと肉に生かされてきた。最高な時は上機嫌に、最低な時は不機嫌に、当たり前に肉を食べてきた。これからもそうして行くはずだ。肉を食べる事は生活そのものだ。

 口に入れた途端に溶けてしまう高級な肉の事はすぐに忘れてしまう。だからどうしても、いつの間にか生き返ってしまうような、あんな肉の事ばかり思い出してしまう。

牛を屠る (双葉文庫)

佐川 光晴(著)

双葉社
2014年7月9日 発売

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