『ぼくとジムランの酒とバラの日々』(菅原正二 著)
9月16日、岩手県一関にあるジャズ喫茶ベイシーに行った。その時、マスターの菅原さんに貰ったこの本は、良い匂いがする。この場合の「良い匂い」というのは、デパートの1階、化粧品売り場のアレとは違う。アレはアレで好きだけれど。
古くなって焼けた紙に染み付いたタバコや葉巻、コーヒーやウィスキー、ビールのもの。匂いというよりは、臭いに近いのかもしれない。吸い込むと鼻の奥で暴れる、ギザギザした独特な匂いがして、ページを開くたびに思い出して良い気分になる。匂いは気分だ。気分は臭いだ。ニオイは気分一つで忙しい。タバコの臭いが嫌いでも、好きな人が好きなタバコの臭いであれば好きになる。
9月16日の匂い。あの日、マスターの菅原さんを一発で大好きになってしまった。こんな恥ずかしい言葉でも足りないくらいに。ジャズも知らずにノコノコやって来た調子乗りを、サッと包んでくれた楽しい夜。
一番良い音が聴こえるからと案内して貰った席に腰を下ろした時にはすっかり酔いがまわっていて、スピーカーからの爆音で空気がビリビリ震えていたけれど、自分の視界もグラグラで、ただただ楽しかった。(もっとちゃんと聴いておけば、と後から後悔した)
なぜ楽しかったか、なぜ嬉しかったか、なぜ好きになったか、これはうまく説明が出来ない。思い返しても書けない。ニオイの次、今度は音。感情は音だ。この本にも書いてあるけれど、音は残らずに消えてしまう。ただなんか良い、って空気だけを残して、理由と一緒になって消えてしまう。自分にとって、あの日は音楽そのものだった。理由よりも強く残るのは忘れられない音。それはベイシーで聴いた音楽ではなく、そこに居た人の音。(もちろん流れている音楽も素晴らしかった)
掴むことも、撫でたり、抱きしめたりすることも出来ない。そんな音に向き合っては、何度も見つけて何度もなくしてきた菅原さんの記録を読んでいると、音楽を職業に選んだ事について改めて考えてしまう。でも、なぜ続けてこれたかという理由もそこにあるのかもしれない。音は本当に厄介だ。長い間一緒に演奏をしているバンドメンバーとですら、完璧に音を共有するのは困難だ。だからここがさ、これがさ、そう言った時にはもう遅い。音は言葉よりも速いから。そして言葉にすればする程に難しくなる。だからこそ言葉にして追いかけたくもなる。それでも捕まえてしまわないように。だって、音を言葉に出来てしまったら終わってしまうから。それでも、菅原さんはひたすら音に向き合っている。読んでいて気が遠くなるけれど、気がついた時には、言葉が聴こえてくる。
2017年9月16日。あの日は、本当に楽しかった。そう思って本を閉じたら、紙に染み付いた匂いが嬉しそうに鳴った。