事故から数カ月が経過したものの、麻痺した体には変化が見られなかった。そこで片山は体の機能を維持・回復させるための専門の病院探しをすることになった。
リハビリテーションで実績のある病院の情報を集めていた当時の京子さんに、ある温泉付きリハビリ施設の医師がこう語りかけた。
「奥さん、御主人はもう治りませんよ」
「それは、理解しているつもりです」
「……あなたは自分の人生のことも考えたほうがいいですよ」
京子さんが振り返る。
「“自分の人生”ということを言われたのはそのときが初めてでした。それまで、そんなことを考えるような余裕もなかったけれど、私には、いまとは違う別の人生が、もしかしたらあるのかなと気づかされました」
当時、京子さんはまだ20代だった。障害者となった夫を生涯、介護するとなれば、自分の仕事をして、子どもを育て、ときには旅行に行き、趣味を楽しむといった、ささやかな人生の幸せを放棄しなければならないかもしれない。
医師が語りかけた「自分の人生を考えたほうがいい」という言葉は、非情なようでも「夫を捨てる」という選択肢を示唆するものだったのか。
「真意を聞いたわけではないのです。夫を捨てることが自分の幸福につながるという意味ではなかったようにも思いますが、先生がそうおっしゃったのは事実です」(京子さん)
「単に逃げる勇気がなかったのかもしれません」
その点について片山はどう思っていたか。
「率直に言って、捨てられても仕方がないと思っていました。彼女は看護師でしたが、それ以前に1人の人間であって、24時間ナースでいられるはずもない。実際、自分の両親から言われたことがあるんです。言葉は明確に覚えていないのですが、“彼女を解放してあげなさい”という意味でした。ただ、自分からカミさんにその話を切り出したことはありません」
京子さんは正直な心境を明かした。
「試されていたんでしょうね。あのとき、私はなぜ看護師になったのかと考えました。先ほどもお話ししましたが、深く考え抜いて選んだ仕事ではなかった。ただ、いったんその道を志した人間が、簡単に介護を投げ出したらいけないという気持ちは強くあったと思います。主人を捨てて幸せになる自信はなかったです」
これは職業人としての矜持である。京子さんはこう付け加えた。
「単に逃げる勇気がなかったのかもしれません」