1ページ目から読む
2/4ページ目

 先行きがどうなるとも分からず精神的にもっとも苦しかった時期、京子さんはある親しい看護師の友人に相談したことがあった。

「いまのままでいいのかな、と思ってる。ひとりになりたいのかな……」

「ひとりに?」

ADVERTISEMENT

「うん……」

 するとその友人はこう言った。

「そんなことをしたら、あなたは多分、自分を許せなくなるよ。後悔するの、見えてるじゃない?」

 自分自身を許せない――人間にとってこれほど過酷な精神状況はない。無論、介護の労苦はきれいごとでは語れない。現に「自分の人生を考えなさい」と進言する医師もいるのだ。

 だが、そのとき京子さんは友人の言葉を素直に受け入れることができたという。

「それもそうだな、と思いました。彼女も私の立場なら、自分で自分を許せなくなると思ったのでしょう。自分の話を聞いてくれただけで、ずいぶん気持ちが楽になりました」

1992年1月8日、片山さんは大阪府立体育会館での試合で緊急搬送された ©山内猛

好きだったプロレスを見ることができなくなった

 片山夫妻はその後、郷里の岡山県に移り、実家から地元の吉備高原医療リハビリセンターに通う生活が始まった。

「岡山に戻ると決めたとき、カミさんが一緒に来てくれるか、正直不安に思っていました。彼女にとって岡山は縁もゆかりもない土地ですし、もちろん友だちもいません。よくついてきてくれたと感謝しています。このころは、何とかもう一度体を動かせるようにしてやろうという気持ちが強かったですね。動かせる首から上の筋トレもしましたが、なかなか自分の客観的状況を受け入れようとしなかったので、その意味でも彼女には苦労をかけてしまったと思っています」(片山)

 岡山に移り住んでから10年以上、片山はほとんど外出することなく、京子さんは孤独な介護を続けるという時期が続いた。京子さんは夫がケガをした後、好きだったプロレスを見ることができなくなったという。

虎のパンツがトレードマークだった片山さん

「幸運だったことは、団体(メガネスーパー)が一定の保障をしてくれたことと、たまたま主人の両親がプロレスラーでも入れる介護型の保険を見つけて勧めてくれたため、それに加入していたこと。それだけで生きていけるわけではないですけれども、保険に入っていなかったらもっと大変だったと思います」(京子さん)

 いまでこそクラウドファンディングで支援金を募ることもできるが、当時はプロレスラーが大きなケガを負った場合、広く一般のファンから支援を受けられるような仕組みはほぼなかった。それだけ、プロレスラーはリスクの高い仕事だったことになる。