そして、この「儀式」をやらないと、「誠意がない!」と余計に相手が怒って示談に応じてくれなくなり、問題がどんどんこじれていきます。
日本社会には、こうした「お互いに時間は無駄にするけれど、感情を収めるために必要なこと」にものすごく時間を費やします。人間なのだから、ミスをしたり、他人に迷惑をかけて生きるのは当たり前。他人を責め、許さない気質は窮屈だなと私は感じてしまうのです。
怒りを鎮めるための「謝罪の儀式」
ある大企業のイベントで、企業間でトラブルが起きました。現場はなんとかその場で収まりましたが、担当者はその後、「反省のための文書」を書かされました。
そのとき私は孫請けで関わっていたので、トラブルの原因はわかりませんが、「何があったかを思い出して時系列に整理して、本社に報告しなくてはいけない」と言うのです。なんという後ろ向きな仕事なのでしょうか。一方マレーシアではトラブルの原因を追及せず、曖昧なまま終了することもあります。
この「反省文」を書くという「謝罪の文化」は小学生の時代から始まっています。
今ではあまり聞くこともないようですが、私が子どもの頃、小学校では「反省会」というものがありました。その名の通り、児童に「反省させる」のです。
「A君が掃除をサボっていました!」
と責められる。A君は、
「サボって悪かったです。これからはちゃんとやります」
と言い、先生から「反省文」を書くことを命じられます。
反省文を書くことは、時間の浪費?
反省文を書かされる方は、心の中では「めんどうくさいなあ」と思っていたりします。「あのときはお腹が痛かったからです」などと書くと「言い訳するな」とさらに怒られることが目に見えているので、ひたすら「ごめんなさい、僕が悪かったです」と謝る。本心でなくても、です。ただ形式的にお詫びの文章を書くのです。
つまり「反省文」を書くことが、「時間の浪費」であり、「他人に嘘をつく練習」にもなっています。こうして「本音と建前」を子ども時代から叩き込まれていくのです。
そういう教えを叩き込まれた子どもが大人になり、社会の中枢を担っていくようになって、「謝罪の文化」につながるのだと思います。