日系企業と一緒に働いてつくづく大変だと感じるのは、社内におけるこのような「文書作成」です。とくにお役所では、書類の「分厚さ」が評価につながることもあるらしく、延々と長い文書を書かされます。読む側も、長すぎてポイントを探すのも大変で「誰得なの?」となります。
「お詫びの姿勢を見せること」「それに時間を使うこと」「分厚い報告書を作ること」が日本のビジネスシーンでは重要なのでしょう。
たとえば地下鉄が遅延したとき、乗客に謝る職員です。謝っている時間があったら、他の仕事をすればいいのにと思ってしまいます。そして職員の貴重な時間が失われていき、サービス業に携わる人たちの仕事はますます忙しくなっていくわけです。
刑務所の累犯受刑者の“意外な共通点”
「良かれと思って」やっているこの「謝罪の文化」について、実に興味深い分析があります。何度も刑務所に入るような犯罪者の共通点が、「反省文をたくさん書いていること」だと聞いたらビックリしませんか?
臨床教育学者で、刑務所での累犯受刑者の更生支援に関わっていた岡本茂樹さんは、著書『反省させると犯罪者になります』で、反省文を書くことは、「百害あって一利なし」と書いています。
《悪いことをした人を反省させると犯罪者になります。
そんなバカなことがあるか。悪いことをしたら反省させるのが当たり前じゃないか、と思われるでしょう。それは、疑う余地もない世間の「一般常識」なのですから。しかし繰り返しますが、悪いことをした人を反省させると、その人はやがて犯罪者になります。自分自身が悪いことをして反省しても、同じ結果です。つまり犯罪者になります。
問題行動を起こしたら、「すみません。ごめんなさい」と謝罪して、二度と過ちを犯さないことを誓う。これが学校現場だけでなく、家庭でも社会でも普通に行われてきた方法なのです。しかし、これでは問題を先送りするだけなのです。それももっと悪化させた形で。
反省させるだけだと、なぜ自分が問題を起こしたのかを考えることになりません。言い換えれば、反省は、自分の内面と向き合う機会(チャンス)を奪っているのです。問題を起こすに至るには、必ずその人なりの「理由」があります。その理由にじっくり耳を傾けることによって、その人は次第に自分の内面の問題に気づくことになるのです。この場合の「内面の問題に気づく」ための方法は、「相手のことを考えること」ではありません。親や周囲の者がどんなに嫌な思いをしたのかを考えさせることは、確かに必要なことではありますが、結局はただ反省するだけの結果を招くだけです。》