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 リコール問題の記者会見で

「国と会社に捨てられた人間」

 ――まさに泣きっ面に蜂の状況ですね。2009年から発生したアメリカを中心とした大規模リコール問題は、豊田社長にとって一番の試練だったのではないでしょうか。発端は2009年8月、米カリフォルニア州でトヨタの高級車のレクサスが急加速して土手に激突、車に乗っていた家族4人全員が死亡した事故でした。その後、トヨタの車のペダルやブレーキの不具合が相次いで報告され、世界規模の大規模リコールへと発展しました。

 日本国内でリコールが問題視された際、最も注目されたのは、米下院の公聴会に豊田社長自身が出席するか否か。豊田社長は当初、公の場になかなか姿を現さず、批判を受けていましたね。

 豊田 リコール問題にかんして、会社は2010年2月2日に日本国内で最初の記者会見を、同月4日に2度目の記者会見を開きましたが、確かにどちらにも私は出席しなかった。最初から出るつもりでしたが、「絶対に出るな」と、会社から止められていたのです。

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 ――社長自らが出ると言っても、難しいものですか。

 豊田 そう、何といっても「捨て駒」ですから(笑)。しかし、それでは世間は納得しない。2度目の記者会見が終わったところで、「このままではダメだ。すぐに3度目の会見を開き、私自身の口から説明する」と、周囲の反対を押し切って決断しました。2度目の記者会見は木曜日でしたが、土日を跨いでいる暇はない。翌日の夜9時から緊急会見を開くことに決めました。

 ただ、発言内容はかなりの制限を受けた。すでに私は公聴会に出席する腹積もりで、記者会見でその旨を説明しようとしましたが、「公聴会にかかわる発言は一切しないでくれ」と止められました。会社としては、私の公聴会出席に反対だったのです。米トヨタからも、「ここに記された内容以外は発言しないでください」と詳細なメモが送られてきました。

 当然ながら記者会見は上手くいかず、メディアからはさらなる批判を浴びることになりました。うちの広報からは「ほれ見たことか」、「俺達の言うことを聞かずに勝手なことをするから、あんなグチャグチャになるんだ」と、散々の言われようでしたね。

 ――当時、メディアのバッシングは凄まじいものがありました。

 豊田 これは完全に僕を潰しにかかっているな、と。私は今でも自分を「国と会社に捨てられた人間」と呼ぶことがありますが、ひしひしと孤独を感じていました。

初めて会社の役に立てるかもしれない

 ――2010年2月18日、米下院は正式に豊田社長の公聴会への招致を決定します。翌日、豊田社長も出席を表明されました。公聴会開催は同月24日でしたが、アメリカに向かう時はどのような心境でしたか。

 豊田 日本を発ったのは2月20日でしたが、覚悟らしい覚悟は、特になかったですね。「俺の社長人生も終わったな。1年ももたなかったとグチグチ言われるんだろうな」ってぼんやり考えながら飛行機に乗り込んだ。

 ――短い社長人生だったなと。

 豊田 本当にそう感じていましたね。でも、ふと、ひとつの考えが頭をもたげました。もしかすると、社長になって初めて会社の役に立つ人間になれるかもしれないなと。会社が危機に瀕した状況で、世論が重要視するのは話の中身ではなく、「誰が言うか」。私は創業者ファミリーの一員であり、自社の商品全てに私の名前が冠されている。車が傷つけられることは、いわば私自身の身体が傷つけられることと同じ。そう公聴会で説明し、共感していただける人間として、私以上の適任者はいない。まさにベストキャスティングだなと考えたのです。

 創業ファミリーの一員である私が、世間に対して誠実に説明ができれば、今一度トヨタに信頼を取り戻せるかもしれない。たとえ1年足らずで社長をクビになったとしても、結果的に会社を救えるのであれば本望だと腹を括りました。ここが社長として大きなターニングポイントになったと思います。