「思い出したくもない」と高田は口を噤んだ
2012年に高田宏治にインタビューした際、私はこの事件のことをあらためて訊いたが、高田は「思い出したくもない」と言ったきり口を噤(つぐ)んだ。私はこの事件が偶然なのか、それとも必然だったのかをどうしても知りたくなった。高田の紹介で『北陸代理戦争』のスタッフを訪ね歩くうち、プロデューサーの奈村協がこんな話をしてくれた。映画の撮影中、ロケハンや雪かきを手伝った川内組の若頭補佐、馬中忠男(ばちゅうただお)から奈村に、川内が殺されて半年経ったある日、ふいに電話がかかってきた。受話器の向こうで馬中は「あんときは寒かったなあ」と繰り返すばかりだったので、仕事中だった奈村は「後からかけ直してくれる?」と電話を切った。それからまもない77年11月16日、奈村が撮影所の食堂で昼食を食べていると、テレビに「暗殺隊指名手配」というタイトルとともに馬中の顔写真が映った。国鉄大阪駅で菅谷政雄を待ち伏せていた馬中を隊長とした暗殺部隊が逮捕されたというニュースだった。
奈村は、あの電話で馬中は奈村に「さよなら」を言いたかったのだなと気づく。菅谷暗殺に成功するか、失敗するか、どっちに転んだとしてももう奈村には会えない。最後の電話を川内組の幹部や家族ではなく、極寒の福井で労苦をともにした自分にかけてくれたのだ、と。「馬中さんは服役し、出所してまもなく堅気になったと聞きました。とにかく人柄のいい人物でした」と奈村が遠い目をして語るのを聞き、私は無性に馬中に会いたくなった。馬中に聞けば、事件の真相が明らかになるかも知れないと心が逸(はや)ったのだ。しかし、奈村のもとへの馬中からの音信が途絶えてから、すでに35年の歳月が流れていた。
矢も楯もたまらなくなった私は翌月、北陸本線に乗って、川内組がある福井の芦原(あわら)温泉に向かった。現役のヤクザに会うのは恐い。しかし馬中は堅気になった「元ヤクザ」で「人柄がいい」と奈村も言っていたではないか、と自らに言い聞かせる。私は“北陸代理戦争事件”の真相を解き明かす書物を書かねばならないとすでに思い定めていた。これまでも映画人に取材した実録ヤクザ映画の本はあるにはあった。しかし、映画人とヤクザの双方に聞き書きしたものはなく、映画の影響を受けて親分を殺されたヤクザが、その映画のことをどう思っているのか聞き出すことができれば、実録ヤクザ映画の核心に迫れると思ったからだ。
手離さなかった取材テープ
芦原温泉駅の駅舎を出た私は、すぐさま駅前のタクシー会社に行き、一番古手の運転手に町の案内を頼んだ。読売新聞記者の黒田清が「見知らぬ土地に行って何かを見つけようと思ったら、古くてぼろい飲み屋に入れ。タクシー会社の古い運転手から話を聞け」と書いていたからだ。
黒田の言葉は正しかった。ベテランの伊藤運転手は、35年前に川内弘に挨拶に行く深作欣二と松方弘樹を乗せていた。彼は暗殺隊の一員だった山岸欣也の従弟、清水一信と高校の同級生だった。私を清水の家に連れて行った。だが、清水は険しい表情で、「あの映画のことはこの町ではやたらに聞かんどき。あんなもんを作ったから親分は命を早めた」とにべもない。しかし私は性懲りもなく、その晩、芦原温泉街の古そうなスナックを回ってみた。三国の人々は川内弘のことを「一般のもんをいぶる(いじめる)ことなど全然(じぇんじぇん)ない、ヤクザとは思えんようないかつさのない紳士やった」と思いを新たにし、山の上に住居があった川内を“山のおやっさん”と親しみをこめて呼んだのだ。三国で川内の評判が良いのは、川内組が競艇場の警備や予想屋の仕事、芦原温泉郷の治安維持や夜の遊興の斡旋など、競艇と温泉の町に不可欠な“負のサービス”を一手に引き受け、三国町と川内組が持ちつ持たれつの関係を——他の自治体が警察の圧力や市民団体の反対でヤクザとの関係を絶ったあとも——なおも続けたからだろう。また、川内は「地元で間違いやったらあかん。可愛がられんと」と“お客さん”である堅気衆への気遣いを常に怠らなかった。馬中忠男に会うことができたのはそれから半年後のことだ。福井市内でスナックを営む馬中は、暗殺隊逮捕にまつわる驚くべき真相を話してくれた。