今から50年前、反乱の季節の終わりに日米で大ヒットした第一級エンターテインメント。だが、その内実は真逆だった――。映画史家・伊藤彰彦氏による「『ゴットファーザー』と『仁義なき戦い』」(「文藝春秋」2022年8月号)を一部転載します。
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2022年は『ゴッドファーザー』(フランシス・フォード・コッポラ監督)が、23年は『仁義なき戦い』(深作欣二監督)が公開されてから50周年となる。ともにマフィアやヤクザを描いた特異な「ジャンル映画」でありながら、『ゴッドファーザー』はAFI(アメリカン・フイルム・インステイテユート)や英国映画協会が選んだ世界映画のベストテンにランクインし、『仁義なき戦い』は「キネマ旬報」の「オールタイム・ベスト映画遺産200(日本映画篇)」(09年)で5位に選ばれた。
反社会的な集団を描いた映画がなぜこれほどまで広範に高い評価を得ているのか。そもそも『ゴッドファーザー』と『仁義なき戦い』が立て続けに製作されたのは偶然なのか、はたまた時代の必然なのか。半世紀を遡り、それを明らかにしたい。
『ゴッドファーザー』の企画は、1969年に作家マリオ・プーヅォの同名小説(当初の題名は『マフィア』)がベストセラーになったことから始まった。
「『マフィオーゾ』(シチリアでのマフィアの呼称)の起源は、19世紀にシチリアの大土地所有者が小作人を管理・監視するために雇った武装集団『ガベロット』です。ガベロットは暴力と脅迫によって小作人だけでなく地主も脅し、富を蓄え、しだいにマフィオーゾと呼ばれ、政治家と癒着し、中央政府とも緊密な関係を作り上げます。
彼らはムッソリーニのファシズム政権下では徹底的に弾圧されましたが、第二次大戦末期の連合軍のシチリア上陸・統治に協力することで、様々な利権を得て力を盛り返し、麻薬の輸出などで勢力を拡大していきました」と『シチリア・マフィアの世界』などの著作があるイタリア近現代史の専門家、藤澤房俊は語る。
原作を書き上げるまでの3年、小切手を送り続けた
19世紀末から20世紀にかけて、多くのシチリア人が一攫千金を夢見てアメリカに渡った。その中にはマフィオーゾもいた。20年代の禁酒法時代に密造酒の製造・輸出で富を蓄えて伸し上がったマフィアの中には、『ゴッドファーザー』にモー・グリーンとして登場する、ラスベガスを作った男ベンジャミン・“バグジー”・シーゲルや、『PARTⅡ』のハイマン・ロスのモデルであるユダヤ人マフィアのマイヤー・ランスキーがいた。
彼らが密造酒作りを始めた20年、マリオ・プーヅォはイタリア系移民の子供としてニューヨークのヘルズ・キッチンで生まれた。ヘルズ・キッチンは現在では小室圭、眞子夫妻が住む瀟洒な住宅街として知られるが、20年代はスラム街だった。しかし、プーヅォはアウトロー出身の作家ではない。
イタリア系アメリカ人の一家を描いた『The Fortunate Pilgrim』(65年)を読んだ出版社側から、「『マフィア』が登場していたらもっと面白い本になったのに」と示唆を受け、プーヅォは徹底した調査を元に『マフィア』を書き始める。そして彼は、完成前にパラマウント映画に売り込んだ。だが、当時パラマウントは危機的な経営状況にあった。63年、アメリカの映画館入場者数は史上最低となり、60年代後半、アメリカの大手映画会社、ユニバーサル、ユナイト、ワーナー・ブラザースは映画の製作・配給だけでは経営を維持できず、金融、不動産、TV制作会社などを複合的に営む巨大企業の傘下に入った。同様にパラマウントも66年にG(ガルフ)&W(ウエスタン)社(工業製品、自動車部品、製紙などを手がける多角的企業)に吸収合併され、製作本数を削減し、撮影所の一部を売却するなど合理化を図っていた。
そうした厳しい状況にありながら、重役のピーター・バートと製作部長のロバート・エヴァンズは、ヒット作を作るには優れた原作を手に入れなければならないと考える。彼らは『ある愛の詩』とともに『マフィア』にその可能性を見出し、プーヅォがこの本を書き上げるまでの足かけ3年、小切手を送り続け、小説の脚本化権を買い取った。