原作を読んだコッポラは監督を断わっていた
69年、『ゴッドファーザー(名付け親)』と改題された『マフィア』はパットナム社から出版されるやハードカヴァーで500万部、フォーセット社から出たペーパーバックでは900万部を超える出版史上空前の売り上げを記録した。しかし、小説がベストセラーになった頃、パラマウントは映画製作に対する熱意を失っていた。シチリアからアメリカへ移住したマフィアの兄弟愛を描いた『暗殺』(69年、マーティン・リット監督)がまったく当たらず、莫大な借金が残り、マフィア映画の興行価値を疑問視せざるをえなかったからだ。しかし、他の映画会社が興味を持ち、権利を譲って欲しいと次々申し出てくると、パラマウントはベストセラーの知名度だけを利用し、原作の舞台である40年代を現代に移して低予算で作ろうと考えた。
最終的に、パラマウントが監督をフランシス・フォード・コッポラに委ねたのは、それまで興行的に失敗したマフィア映画のどの作品も、出演者や監督がイタリア系でなかったことに気付いたからだ。コッポラはイタリア系アメリカ人の両親のもと、39年にデトロイトで生まれた。『パットン大戦車軍団』(70年、フランクリン・J・シャフナー監督)の脚本でアカデミー賞を受賞したものの、それまで撮った5本の映画はいずれも当たらず、自主製作映画を作るため設立した会社(アメリカン・ゾーイトロープ)には6000万円もの借金があった。
原作を読んだコッポラは「安っぽく煽情的だ」と落胆し、監督を断わった。「ところがマリオに会って初めて、彼の魅力に惹きつけられたんだ。彼には親戚のおじさんのような親しみやすさがあり、まっとうで気さくな素晴らしい人物だった」(コッポラインタビュー、『kotoba』22年春号)と語る。
ヨーロッパ映画的格調とスキャンダラスで泥臭い演出
コッポラとプーヅォは、複数の人物が並行して描かれる原作を、脚本ではマイケル(アル・パチーノ)の物語を中心に据え、近代劇の骨法に則った「三幕劇」に仕立てた。コッポラはまた、原作の時代設定(40年代)の再現、原作通りのニューヨークでのロケ、マーロン・ブランドの出演、そしてマイケル役へのアル・パチーノの起用を頑なに主張した。低予算のギャング映画にしたいパラマウントと闘い、G&W社の取締役会長、チャールズ・G・ブルードーンを粘り強く説得した。
そして、満足できるカットを撮れるまで延々とテストを繰り返し、撮影開始後2週間ですでに2日以上スケジュールを遅らせた。苛立ったパラマウント側は、監督を『欲望という名の電車』(51年)や『波止場』(54年)でブランドと組んだ、コッポラよりも30歳上のエリア・カザンに代えようとしたが、アル・パチーノがレストランで、敵役のボスであるアル・レッティエリと悪徳刑事のスターリング・ヘイドンの額を撃ち抜くシーンのラッシュを観て、コッポラの演出にみなぎる力感と瞬発力に驚き、翻意した。
撮影監督のゴードン・ウィリスは、「40年代のニューヨークの空気感」をゴールデン・アンバー(琥珀色)の諧調で表現し、繊細な照明で静謐さと漆黒の闇を映画に付け加えた。衣裳のアンナ・ヒル・ジョンストンは厳密な時代考証で当時のスーツやドレスを誂え、プロダクション・デザイナーのディーン・タボラリスは深く脚本を読み込み、暴力が起こる直前の画面にかならず果物のオレンジを置き、「死や暴力の意識づけ」とした。
コッポラは、コルレオーネ家をあたかもメディチ家のように、マフィアの抗争をオペラのごとく、ギャング映画を西欧絵画的な光と影で撮った。このようなヨーロッパ映画的格調と、スキャンダラスで泥臭い演出が混淆しているところにコッポラの美意識が窺える。
72年3月15日、『ゴッドファーザー』の初日、どしゃぶりの雨の中、朝8時からニューヨークの上映館の前にはブロックを一周する列ができていた。製作中にマフィアのボス、ジョセフ・コロンボが狙撃され、公開後にマフィアのジョセフ・“ジョーイ”・ギャロが暗殺されたことも映画の恰好の宣伝になり、「私は彼らが断わりきれない申し出をするつもりだ」という劇中のセリフは何百万というバッジ、マグカップに印刷され、『ゴッドファーザー』はアメリカの興行収入記録を塗り替え、その記録は『ジョーズ』(75年、スティーヴン・スピルバーグ監督)の出現まで破られなかった。
アメリカ、カナダで『風と共に去りぬ』の持つ興行記録を更新し、翌年のアカデミー賞で作品賞、脚色賞、主演男優賞(マーロン・ブランド=辞退)に輝いた『ゴッドファーザー』は、オーストラリア、ヨーロッパに先駆け、72年7月15日に日本で公開された。その夏、日本でも『ゴッドファーザー』が社会現象になり、7週間で100万人の動員を記録した。