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ヤクザに嵌められ、自らも奈落に落ちた

 私は原稿がまとまると高田宏治宅を訪れた。高田はその頃、35歳年下の妻とともに山梨、滋賀、東京を転々としていた。数億円の債務を抱え、ヤクザに追いまわされていたのだ。1992年、高田との名コンビで『鬼龍院花子の生涯』(82年)や『極道の妻(おんな)たち』(86年)などのヒット作をつくった監督五社英雄が死去し、96年には盟友であるプロデューサーの日下部五朗が引退し、高田は虚脱した。そんな折、高田は人に誘われ、当時流行していたビデオシネマの製作会社の社長を引き受ける。高田はまもなく会社のオーナーが裏社会の人間だと気づくが、若い妻に財産を残すために会社を続けた。ほどなく高田は私文書を偽造され、そのあげく、ヤクザはある日忽然と姿を消す。数億円の債務を背負った高田は、2012年に勝訴する日まで莫大な裁判費用をかけて、係争を続けた。

『北陸代理戦争』でヤクザを“奈落”に落とした高田は、そののちヤクザに嵌められ、自らもまた奈落に落ちたのだ。にもかかわらず、高田は自分の息子より年下の女性のために奈落に落ちることをむしろ悠々と享受していた。あまつさえ、生来人間好きな高田は行く先々で地元のヤクザと親しくなっては、「先生」と崇め奉られ、落魄しつつ人間の愚かさと愛おしさを凝視し続けた。日々流れてゆくそんな高田に私はとことん付いていった。毎朝、高田は看護師の妻を送り出しては、ライフワークと言うべきシーボルトの愛人を主人公にした小説『ひどらんげあおたくさ』を書き続けた(その後、2016年刊)。私は机を並べて「北陸代理戦争事件」の顛末を書き、高田はそれを読んで朱を入れる。

 高田は引っ越すたびにエミール・ガレの花瓶も日本アカデミー賞のトロフィーも売り払ったが、二十数本あるヤクザの取材テープだけは手離さなかった。その中に76年に取材した川内弘の肉声が残されていた。

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 76年11月11日。川内弘は国鉄北陸本線の加賀温泉駅で東映一行が到着するのを待ち侘びていた、と川内の長男で実業家の享は語った。川内は若い頃から映画が好きだった。福井放送会館でディーン・マーチンの映画がかかると、享をさそっては観に行った。並河正夫(製作進行)に案内され、家族連れで東映京都撮影所を見学してからはいっそう映画への関心がつのった。

その人を倒さんと男になれん

 特急雷鳥が加賀温泉駅に到着し、駅の改札を通り抜けた高田宏治、橋本慶一(プロデューサー)、奈村協、並河正夫らは思わず立ちすくんだ。ロータリーには黒塗りのアメリカ車が数台停まり、縁石に沿って十人余りの黒いスーツの男たちがずらりと居並び、女物のエメラルドとダイヤのブローチを襟元に付け、マキシのコートを羽織った川内がにこやかに歩み寄って来たからだ。

「とってもハンサムだし、白髪をオールバックにしてて、フランス文学者みたいな雰囲気でしたね」と奈村協は回想する。「“武闘派の田舎ヤクザ”という会う前のイメージがまったく覆ったね。人を5、6人殺しているヤクザには到底見えない柔和な目やった」と高田は思い返す。川内は「お疲れやないですか」と高田を労い、荷物を馬中忠男に持たせ、一行は広壮な川内組の事務所に連れて行かれて2日間の取材が始まる。

 取材テープの冒頭で、川内弘は「その人を倒さんと男になれん。それが北陸ヤクザいうもんでね。わたしはその人を倒(たお)いて男になった」と凄みを利かせ、二度繰り返した。改めてテープを聴くと、川内が取材前に考えておいた決め台詞と思える。高田宏治はこの言葉を聞き、総毛立ったという。橋本慶一も「いけるで、これは」と高田の耳元で囁いた。

 橋本はこの映画に賭けていた。当初、『新仁義なき戦い』の最新作として企画された『北陸代理戦争』が菅原文太の降板により流れかけたとき、「高田が頑張ってええホン書いたんや。役者の降板とかで映画は揉めれば揉めるほど当たるいうやないか、これ絶対当たるで!」と日下部五朗に言い張ったのも橋本だ。

 一時間の録音テープには、川内組が福井に侵攻してきた“殺しの軍団”柳川組をいかに蹴散らし、柳川組が解散(69年)後、山口組でナンバー1となった菅谷組の二次団体として全国制覇に貢献したかが、血腥(ちなまぐさ)いエピソードとともに語られている。川内弘は自らが起こした事件の新聞記事をスクラップしており、「全国で事件をやってますからね。おそらく(映画は)当たりますよ」と嘯(うそぶ)く。そして、いかに川内が菅谷政雄のために体を張って戦ったか、にもかかわらずどれだけ菅谷が自分を蔑(ないがし)ろにしてきたかを憤懣やるかたなく語る。その頃、川内は菅谷と不仲だった山口組若頭、山本健一の力添えを得て、直接三代目田岡一雄の盃をもらおうとしていた。しかし菅谷がそれを許すはずなどなかった。

 川内は取材最終日に「喫茶ハワイ」で高田にこう言う。「ほんとうのいい極道の任侠の話、そんなきれいな話は駄目や。極道いうのは汚いとこもある。それをあからさまに出(だ)いてやね、ぼくが亡きあと、こういう者が福井におったというもんを先生(しぇんしぇ)に描き残してもらいたい」と。ヤクザというものはきれいごとばかりを書かせたがる、と思いこんでいた高田は驚き、「オレは笠原(和夫)さんの『仁義なき戦い』の美能幸三以上の玉を掴んだ」と雀躍(こおどり)した。

伊藤彰彦氏による「仁義なきヤクザ映画史」第11回の全文は、月刊「文藝春秋」2023年2月号および、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。

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フィクションを模倣した銃撃──『北陸代理戦争』事件とヤクザ映画の奈落

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