6歳の時にCIDP(慢性炎症性脱髄性多発神経炎)という難病を発症し、31歳になる現在まで苦しみ続けてきた「くらんけ」さん。2021年9月には、安楽死をするためにスイスに足を運び、死の“直前”までたどり着いた。

 ここでは、くらんけさんが安楽死を試みるまでの過程を綴った『私の夢はスイスで安楽死 難病に侵された私が死に救いを求めた三十年』(彩図社)より一部を抜粋。“死”を選んだ彼女は、両親をどう説得したのか――。(全2回の1回目/後編を読む

©AFLO

◆◆◆

ADVERTISEMENT

周囲からの言葉

「安楽死を考えている人には見えない」

「別に死ぬことはないんじゃないですか?」

 死ぬ権利を手に入れてからいくつか取材を受ける機会があったが、私はそのたびにこのような言葉をかけられた。そう見えないように自分でも気を付けているから当然と言えば当然だが、どうやら私からは“いかにも”な悲壮感は漂っていないらしい。待ち合わせ場所に現れた記者の方が私に気付かずに素通りしてしまうこともしばしばだった。

 ただ、そう言ってもらえるのはある種ありがたいことなのかもしれないが、それで私の気持ちが揺らぐことは一切なかった。言葉は悪いが、彼らはあくまで他人でしかない。私は自分の意思決定を最も大事にしたいと思っているし、そのためにはたとえ家族の意見でさえも「関係ない」と切り捨てる覚悟が必要だと考えている。

「治療をやめたいとは言っても、お医者さんからしたら患者の命を救うために最善を尽くすのは当然のことでは?」

 これも取材を受ける中でよく言われた言葉だ。

 確かに医療者側の目線に立ってみれば、それは正論と言えるだろう。治療をやめたり安楽死の手助けをすることは医療者としての倫理観に大きく反するだろうし、仮に自分の行為が自殺ほう助だと認められてしまえば、医師免許ははく奪され刑法で罰せられることになってしまう。

 しかし、それでは患者の意思はまったく無視されていることにならないだろうか。

 私は何度も、「医者の目標と私の目標がそもそも食い違っているのでは」というケースに遭遇してきた。治療や緩和ケア一辺倒の医師と、もっと違った形での救いや理想もあるのではと考えている私。そもそもの出だしから別方向に向いてしまっているため、いくら話し合いをしても埒が明かないのだ。

 また、医者は基本的に治療のことについてのサポートをしてくれるだけで、それ以外のケアをしてくれるわけではない。要するに「治療は一生懸命やるけど、私生活のことは自分でやってね」というスタンスだ。

 もちろんそれが医者の仕事なので文句を言うつもりはないが、一方で「そのスタンスは少し無責任ではないか」と思わないこともない。私の担当医がたまたまそういうタイプの人ばかりだったのかもしれないが、「命を救う」「治療する」ということに注力しすぎて、かえって盲目的な医者があまりにも多いのではないだろうか。もう少し患者の治療満足度とのバランスを考えてくれてもいいのではないかと、私は常々感じている。

 良くなりさえすればいい、と患者を無視するような乱暴な治療プランを立てて、ついていけないと言えば腹を立てる。いつから患者は医師の提案を無条件ですべて受け入れることが最善で常識になっているのだろう。あなたのためを思って、とは言うが、実は一番報われたいと思っているのは「頑張っている自分たち」なのではないか。

 このような食い違いを経験しているのは、私だけではない。