6歳の時にCIDP(慢性炎症性脱髄性多発神経炎)という難病を発症し、31歳になる現在まで苦しみ続けてきた「くらんけ」さん。2021年9月には、安楽死をするためにスイスに足を運び、死の“直前”までたどり着いた。
ここでは、くらんけさんが安楽死を試みるまでの過程を綴った『私の夢はスイスで安楽死 難病に侵された私が死に救いを求めた三十年』(彩図社)より一部を抜粋。ついに決行を翌日に控え、最終決断のための「クールダウン期間」を父親と過ごす彼女は何を感じていたのか――。(全2回の2回目/前編を読む)
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最後の晩餐
クールダウン期間は、完全に自由時間だ。とはいえ別に観光という気分でもなかったし、父の様子もとても不安定だったので私たちは基本的にずっとホテルの部屋で過ごした。
食事は近所のスーパーなどで適当に買って食べた。基本的にパンしかないし、保存食的な意味合いが強いのかスイスの食べ物はどれもしょっぱい。日本食の店もあるにはあるが、美味しくはない上にぼったくり価格だ。「日本のご飯って、美味しかったんだな」などと呑気なことを考えながら、私は口に合わない食べ物を苦笑いで胃に流し込んでいた。
母や姉とは、スイスに着いてからも家族のグループLINEでメッセージのやり取りをしていた。
「冷やかしで買ったパック寿司がマズかった!」
「美味しい日本食が食べたい!」
まるでただの海外旅行に来ているかのような会話をして楽しんだ。特にすることもなかったし、これは良い気分転換になった。
そして迎えた、最後の夜。私は心変わりすることなく、当日を迎えられそうだった。問題は、父だ。さすがに今さら私を説得しようとまでは思っていないようだったが、父の混乱はピークに達していた。
コインランドリーがなかったため手洗いとドライヤーで洗濯を済ませつつ、無言で過ごす。彼はだんだんピリピリしはじめ、挙げ句の果てには「ひとりで部屋を出たくない」とまで言い出した。それまでの雰囲気からなんとなく察してはいたが、どうやら貴重な最後の時間は1秒でも長く2人だけで過ごしたいということらしい。
強いて反抗することもないし私は言われた通りにしていたが、困ったのが夕食のときだ。ついに父はスーパーに買い出しに行く時間さえも惜しいと言い出し、急いでホテルの売店に向かった。
「ラーメンがあった」
父が部屋に持ち帰ったのは、日清カップヌードル。中身は何故かソース焼きそばだったが、固いパンと塩辛いハムよりは断然マシだった。
部屋には電子ケトルの類がなかったが、父はスイスに来てからフロントにお湯をもらいに私から離れるのさえも嫌がっていた。
「部屋のシャワーのお湯で作る」
言葉が通じずモタモタするのが余計に嫌だったのかもしれない。それに日本と違い水道水は硬水だから、彼はすでにお腹を壊していた。……まあいいか、とこれにも私は従った。
バスルームのシャワーからカップ麺にぬるいお湯を注ぎ、静かに見つめる光景は、思わず笑いそうになるほどシュールだった。もどりきっていない麺をカシカシと2人で噛みながら、最後の夜は更けていった。
まさか最後の晩餐が、シャワーのお湯で作った生煮えのカップラーメンになるとは。レアケース続きの人生を送ってきた私でも、これはさすがに予想できなかった。