決行当日
さて当日がやってきた。私と父親、宇田さん、西村さんはホテルのロビーに集合した。朝8時にホテルに迎えがくる約束になっていたが、どうやら到着が遅れているようだった。私は疲れもあって、少し苛立っていた。なにせ、昨晩は横で私の両手を握りしめながら小さく体を震わせている父が気になってほとんど眠れなかったのだ。
「私が死んで、この人は本当に大丈夫だろうか」
一度は大丈夫だと思った心配事が再び頭に浮かび、結局私までベッドの上でぐるぐると考えを巡らせることになってしまった。
1時間ほど遅れて、迎えはやってきた。国民性なのかもしれないが、ずいぶん呑気なものだ。車で30分ほど走り、ライフサークルの施設に到着した。
エリカ先生と看護師さんが迎えてくれた部屋に、机を挟んで座る。最後の意思確認である。
「気持ちは固まりましたか?」
エリカ先生の問いに、私は正直に答えた。
「それが、まだ固まってないんです」
「……どういうこと?」
部屋の空気が一瞬にして凍りつく。私の気持ちを聞いた先生の言葉には、明確な怒気のようなものが含まれていた。
「私一人だけのことなら、100%です。でも家族のことを考えると、どうしても振り切れない」
「それでは一度、お父さんと話をさせてください」
父の方に向き直ったエリカ先生は、鋭い質問を投げかけた。
「親のエゴで娘を生かす選択は、本人を苦しめることにもなります。それについてはどう思っていますか?」
私が何度も母に言い聞かせたのと同じ言葉だった。
「もちろん本人の意思は尊重したいと思っています。しかし日本の社会というのは元来……」
もはや錯乱状態の父は、しどろもどろになりながら的外れなことを滔々と語り出した。エリカ先生は困惑するばかりで、話は一向に前に進まない。
どうしてこんなことになるのだろう。なぜ何もかもスムーズにいかないのだろう。苛立ちや悔しさが溢れ出し、私はとうとう泣き出してしまった。
「もういいです、やっぱり自分の決定を大事にします。父は関係ありません」
不毛な問答を断ち切るように、私はエリカ先生に訴えかけた。こうなればもう、多少強引にでも話を進めるしかなかった。
ほとんど勢いで最終確認の書類にサインをした私は、吐き気止めを飲んでベッドに向かった。
待ちわびた瞬間
みんなに囲まれながら、やっとの思いでベッドに腰掛ける。
死ぬ権利を手に入れたときはあんなに晴れやかな気持ちだったのに、今や私の感情はぐちゃぐちゃだった。自分の死に実感を持てていなかったのは、もしかすると父よりも私の方だったのかもしれない。
「中途半端な量で止めてしまうとかえって危険です。一気に飲み干すようにしてください」
コップに入った薬が手渡される。中に入っているのは「ネンブタール」と呼ばれる薬だ。動物の安楽死の際にも使われる、いわゆる睡眠薬である。これを通常の15倍ほどの量で投薬することで、苦しみもなく、眠るようにあの世へ行けるということだった。通常は点滴で致死量の薬を入れるというのがスタンダードなやり方だが、血管のルート確保が難しい私は相談して口からそのまま飲む方法に変更してもらったのだ。
もう片方の手は、父の冷たい手で力強く握られていた。涙を流すまいと目を真っ赤にしながら、私の最期の姿を目に焼き付けようとしているようだった。