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機能しなければ広告ではない。――伝説のクリエイター大貫卓也の仕事術 1

2018/02/22
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 豊島園の「史上最低の遊園地」や日清カップヌードル「Are you hungry?」、ペプシコーラ「Pepsiman」、「スターウォーズボトルキャップ」、新潮文庫「Yonda?」、ラフォーレ原宿、資生堂TSUBAKI、ソフトバンクなどの広告をおぼえている人は多いだろう。それまでの広告の常識を次々とくつがえし、消費者に強烈なイメージを焼きつかせる、数々の広告を作り上げたのが大貫卓也さん。このたび『Advertising is    Takuya Onuki Advertising Works 1980-2010』(大貫卓也・著 グラフィック社 10000円+税)にその集大成をまとめたのを機に、その表現の秘密を後輩でもある博報堂クリエイティブ・ディレクターの川下和彦さんに探ってもらおうという連載。第1回は、なぜそうした広告表現が生まれたのか。

川下和彦 昨年11月に出版された大貫さんの作品集『Advertising is Takuya Onuki Advertising Works 1980-2010』は1504ページの超大作で、「読めるもんなら読んでみろ」っていう気合いを感じました。拝読するのにかなりの知的体力を使ったのですが、同時に僕も広告業界の人間なので、読みながらすごく親近感を抱きました。

 僕としては内容がよく理解できるのですが、今回は広告業界以外の一般の方にも大貫さんが広告クリエイターとしてこれまでどんなことをしてきたのかということが伝わるようにインタビューをさせていただきたいと思っております。よろしくお願いします。

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大貫卓也 わかりました。よろしくお願いします。

大貫卓也
1958年生まれ。多摩美術大学卒業後、博報堂入社。としまえんの仕事で東京ADC賞を受賞以降、次々と話題作を送り出す。1993年博報堂を退社し大貫デザイン設立。ペプシコーラ、新潮社、資生堂、ソフトバンクなどの広告施策に携わる。

川下和彦
1974年生まれ。 慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了後、博報堂入社。マーケティング部門、PR部門を経て、クリエイティブ・ディレクターとしてジャンルを超えた企画と実施を担当。2017年4月より、新規事業開発に携わるグループ会社のQUANTUMに兼務出向中。

大貫卓也氏(左)とインタビューする川下和彦氏

デザインの世界を志したのは小学1年生

川下 大貫さんは幼い頃から絵を描いていて、多摩美術大学グラフィックデザイン科在学中には資生堂の宣伝部に入りたいと思っていたそうですが、具体的にはいつ頃から広告の世界を志望していたのですか?

大貫 広告というかデザインの世界に行きたいと思うようになったのは小学1年生くらいですかね。幼稚園の頃から絵を描くことが群を抜いていたので、美術関係に進むことは、ごく自然ななりゆきでした。幼稚園で友達の絵を描く時も、みんなは丸で輪郭を描いて目をチョンチョンって描くんですが、僕はすでにデッサンを描くような感じでリアルに描いていました。

川下 幼稚園の時点でそんなに絵を追究するというのは本能的なものなんですか?

大貫 絵に関しては特別な教育は受けていませんが上手な絵を見ると、とにかくそのレベルに追いつきたいという興奮と欲求が湧いてくるような子供でした。

川下 そんなに早い段階からとは驚異的ですね。でもなぜ画家の道ではなく広告の世界へ行こうと思ったのですか?

大貫 「絵描きになっても将来食っていけず不幸になるだけだ」と教え込まれました(笑)。

 絵描きで食っていけないのならデザイナーかなと。当時の日本には美しいデザインというものが、まだあんまりなかったんです。美しいものにすごく貪欲な子供だったので駅前の化粧品屋さんに行っては、ずっと化粧品のポスターやパッケージを眺めていたんですよ。当時の自分にとって、資生堂の化粧品とチョコレートのパッケージが世の中で一番美しいものだと思っていたんです(笑)。

 子供の頃からアルファベットに強い憧れを持ったことが、自分をデザインの世界に向かわせた大きな要因だったと思います。その後、70年代の刺激的な海外文化の洗礼をめいっぱいに浴びて、多摩美術大学グラフィックデザイン科に入学しました。大学時代は、とにかく新しい表現を常に模索していましたね。早く社会に出て自分のセンスで勝負したいと思っていました。