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母親は望んでいたような女の子ではない私にひどく落胆

 家族の誰とも仲良くなかった。両親からさえ遠巻きに見られていた自分を、どう扱えばいいのかもわからなかった。問題に目を瞑って過ごすことができるほど器用でもなく、頭が悪くもなく、なぜ生きているだけで息苦しいのか、毎日毎日そんな閉塞感に襲われて、そこから抜け出すことができるのは本を読む時くらいだった。

 けれど私の読む本は、母親が暗に望んでいたような、女の子の読みそうなかわいらしいものではなく、原子爆弾の作り方だとか、怪奇小説、ホラー、ミステリーといったものだったので、彼女をひどく落胆させてしまったと思う。そんなものを読むなんて頭がおかしいんじゃないのと真顔で心配する母親を、なりたいものに「およめさん」と書いた子と同程度に残念に感じるくらいには互いに距離があった。

 結婚するというのはこういうことなのかな、と幼な心に思ったものだ。もしかして、それをすれば私も、もっと思考を鈍らせ、いちごを何のためらいもなく、食べられるようになるのだろうかと。

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難しい自分の扱い方を教えてくれる夫

 そんな自分が後年、結婚することになったというのは驚きだが、結婚して12年が過ぎたいま思うことは、いかに血のつながりがあったとしても折り合いの悪い人とは距離を取り、自分の領域を尊重してくれる人と過ごすことがどれほど大事か、ということだ。 

 今はいちごも食べられるようになったし、いちごジャムも、アイスクリームのストロベリー味も食べられる。ただ、私はときどき、昔の感覚がフラッシュバック的に戻ってくることがあって、いちごの食べ放題といったところにはあまり行くことができない。 

 夫となった人はいちごが好きで、夫のほうが美しいし、性格的にもやわらかで、女性らしい。けれど、私のそういう部分を見て、彼は残念がったり私を責めたりすることはなく、ただ好きなものを食べに行こうよと言ってくれる。そういう、難しい自分の扱い方を教えてくれる人がいたというのは大きかった。

 自分にとって王道の何かを選んでよいのだ。自分は、自分のことをもっと大事にしてもいい。もう少し時間はかかるかもしれないが、これを何も考えず、自然にできるようになりたいものだと思う。