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「野村くん、男はヘソから下に人格がない」

 しかし、野村の話を聞いた川勝オーナーは、「野村くん、男はヘソから下に人格がない。野球で結果を出してくれればいい」と励ましてくれた。この言葉に“安堵し救われた”と、後に野村は話している。

 その後、野村が率いる南海は翌73年に7年ぶり12回目のリーグ優勝を果たす。同時にこの年、野村は大阪府豊中市にマンションを購入、沙知代との同棲生活が始まり、7月には息子の克則が誕生した。

 野球を知らなかった沙知代は、(前夫との間にできた)2人の息子と一緒に試合前に南海の本拠地である大阪球場に来て、ベンチで野村と談笑する姿があった。事情をよく知らない人は、野村の友人の子どもが遊びに来ている程度の認識だった。また、事情をよく知っているスポーツ紙記者は、野村と愛人との関係を口外しなかった。そういう時代だったのだ。今なら「誰の子どもだ⁉」と大騒ぎになって、さまざまな憶測記事が飛び交い、真実を暴こうと深追いしていただろう。

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南海時代の野村克也(1971年) Ⓒ文藝春秋

マンションに泥棒が入ったのがきっかけで不倫関係が明るみに

 しかし77年春、ついに野村と沙知代の関係が広く世間に知れ渡る。きっかけは野村の住んでいたマンションに泥棒が入ったことだった。この事件を機に、2人の同棲が明るみに出て、週刊誌やテレビのワイドショーが沙知代の存在を「愛人」として取り上げた。

 それだけではない。野村の寵愛を受けるようになった沙知代は、コーチ人事や選手起用にまで口出しするようになっていた。あまりにも図々しく、監督さながらの権力を現場でふるうので、選手間ではいつしか「女監督」などと言われるようになった。このあたりの話は当時の球団関係者が明言しなかったために、噂話の域を出なかったが、当時の報道ではすべてが事実であるかのように語られていた。

南海を出て1年後、1978年の野村と沙知代

 こうした行為が野村と付き合い始めて以降、数年にわたって行われていたというのだから、チームの雰囲気は当然、よくなるはずがない。野村に対して批判的になる選手、球団関係者が徐々に増えていったのは、自明の理だった。

 野村の行状がここまでくると、球団の上層部、ひいては川勝オーナーの耳にも必然届く。当初は野村の不倫を「男はヘソから下に人格がない」と一笑に付した川勝オーナーも、「これは看過できる話ではない」と問題視するようになっていった。

 そしてこの年の9月25日、2つのスポーツ紙が、「野村監督解任か」「私生活を現場に持ち込んだ」などという内容の記事を掲載した。その夜、日本ハムとのダブルヘッダーに出場した野村は、翌日、球団から「もう出てこんでええ」と言われてしまう。25日の試合が54年から24年間、慣れ親しんだホークスのユニフォームを着る「最後の雄姿」となったのである。