訃報を伝える読売新聞の記事

 いまから35年前のきょう、1983(昭和58)年2月2日早朝、東京・浅草のアパートで火事があり、火元となった部屋から、元コメディアンの深見千三郎(59歳)が遺体で発見された。彼のもとからは東八郎、ビートたけし(北野武)といった人気芸人が輩出されたこともあってか、当日の『読売新聞』夕刊には、かなり大きく紙面を割いて訃報が掲載されている。記事によると、深見はその2年前に芸人を引退し、化粧品会社に転職したが、亡くなる前月の正月休みには久々に浅草のストリップ劇場「フランス座」の舞台に立っていた。

 深見千三郎、本名・久保七十二(なそじ)は1923(大正12)年北海道生まれの樺太(サハリン)育ち。高等小学校卒業後、浅草芸者だった長姉(流行歌「あゝそれなのに」で知られる美ち奴)を頼って上京し、やがて姉の紹介で、当時の映画スター片岡千恵蔵のもとで修業を積む。京都での修業時代には、弟子仲間と「チョンマゲ・ボーイズ」という3人組のお笑いグループを結成し、大阪あたりで“内職”していたという。東京に戻ってからは、浅草六区の軽演劇の劇場「オペラ館」に出演した。

深見千三郎の活動の場であった浅草(1978年撮影)。右に見えるのがフランス座

 戦中・戦後の深見の足跡には不明な点も多いが、伊藤精介『浅草最終出口 浅草芸人・深見千三郎伝』(晶文社)によれば、終戦前後には一座を組んで北海道を巡業していたという。このあと浅草で軽演劇を再開するも、所属した劇場が過激なストリップを売りにし始めると、反発して東京を離れた。それから7年ほど神奈川県横須賀にあった大衆演劇の劇場を拠点に活動、1958~59年頃、再び浅草に復帰する。ストリップ劇場「ロック座」では座長格の立場で、芸人たちと幕間コントを演じ、人気を博す。この間、渥美清や萩本欽一などかつての仲間や後輩が続々とテレビに進出したが、深見はその流れに背を向けた。1971年にはフランス座に移り、裏方を取り仕切りながら舞台に立ち続ける。この翌年、フランス座にエレベーターボーイとして入ったのが、25歳の北野武青年であった。

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最後の日に一緒に呑んでいたビートたけし ©文藝春秋

 多くの芸人を育てた深見だが、ことのほかたけしをかわいがり、タップダンスやコントの演技などを教えこんだ。やがてたけしは兼子二郎(ビートきよし)と組んで漫才を始める。深見は漫才という芸を認めず、彼らがフランス座を飛び出すと、怒って出入り禁止にした。それでも、たけしが売れっ子になると許し、晩年は二人で年に何回かは浅草で飲み歩いていたようだ。

 深見の訃報に接したたけしは、全身を打ちのめされた感じがしたという。自伝的小説『浅草キッド』(新潮文庫)に《師匠もフランス座の劇場を退(や)めてしまって、きっとたまらなく寂しかったのに違いない》と書いた彼は、後年、《でも芸人としてはパッといなくなるってのは、カッコいいなあって思った。誰かに悲しまれることが嫌いな人だし、お父っつぁんらしい死に方だった》と師匠を偲んだ(『文藝春秋』2008年9月号)。