母との関係に悩み、現在は中学生の娘を育てる青木さやかさん。そんな彼女が、母との関係を振り返りながら、自身の娘との関係を見つめるエッセイ『母が嫌いだったわたしが母になった』(KADOKAWA)を上梓した。ここでは、同書より一部を抜粋。娘が2歳のときに離婚し、シングルマザーとなったばかりの頃の心境や苦労を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)
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引っ越しで心機一転
娘が2歳の時に離婚した。
離婚と同時に、わたしはそれまで住んでいたマンションから三軒茶屋の細長い戸建てに引っ越した。生活圏も変えた。変えたかったのだ。夫も共に仲良くしてきたマンションの住人たちに感謝はしていたが、今しばらくは距離をとりたかった。詮索されることにも、同情されることにも、付き合える元気はなかった。
娘と2人の新生活が始まった。
離婚前半年くらいは、夫と別居していたので、2人の生活はこれまでもしていたのだが、心機一転というやつだ。
細長い戸建てのおうちは、娘がとても気にいっていた。東向きの玄関を入るとすぐ右手に5畳ほどのお部屋。そこにセミダブルのベッドをぎゅうぎゅうに置いて寝室にした。廊下突き当たり右にお風呂があり、左に2階へ上がる階段がある、2階には15畳ほどのリビングダイニングキッチンがあった。東側にウッドテラスがあり、そこに出てお気に入りの灰皿とメンソールの細いタバコを持って一本だけ吸う。離婚が決まって再開したメンソールのタバコ。部屋はいたるところから光が入るようにうまく設計されていた。至近距離に立つ隣家からは全く見えないのだが、日はふんだんに入り、明るくて気持ちのいいリビングだった。天井には、ウッド調のシーリングファンが回っていた。
わたしは、誰からも見えない目隠しのあるおうちの中で太陽の光をもらって、少しずつ少しずつだけど、元気になっていった。
仕事のギャラより高い、娘を預ける代金
しばらくすると幼稚園が始まった。その幼稚園は、家から車で20分。お弁当持参。午前中もしくは14時にお迎えだったので、家の近くの保育所も併用した。
お迎えに行かれない時はシッターさんにお願いをした。週に一度はパパ宅に行くことになっていた。
世間でいうところの、シングルマザーになったわけだが、この生活は想像をはるかに超えて大変だった。いや、そもそも、想像もしていなかったのかも。常に出たとこ勝負だ。
ある日夜まで仕事があり、幼稚園と保育所とシッターさんに順々にお願いしたのだが、計算してみると、今日の仕事のギャラより娘を預ける代金の方が高いのだ。こんな日はけっこう多かった。