いまから60年前のきょう、1958(昭和33)年2月5日、日本初の海外石油資源開発会社であるアラビア石油株式会社(資本金35億円)の設立総会が、東京・大手町の機械貿易会館で開かれた。初代社長となった山下太郎(当時68歳)はこの前年12月、サウジアラビアとの交渉の末に、油田開発の利権を44年の期限で獲得していた。だが、油田開発には巨額の資金が必要であり、そのために山下は財界の支援を取りつける。新会社の会長には当時の経団連会長・石坂泰三を担ぎ上げ、発起人として電力・鉄鋼など日本の代表的企業40社が名を連ねた。高度成長期を迎え、石油需要が激増していたこのころ、日本の資本による自主開発原油、いわば「日の丸原油」の生産は、産業界全体が求めるところであった。
油田開発の地域は、サウジアラビアとクウェートの中立地帯の沖合(ペルシャ湾上)であったため、クウェートとの交渉もアラビア石油の設立と並行して進められる。同社は1958年7月、クウェート政府と同国沖合の海底油田の原油採掘権協定に調印した。このとき、山下太郎は、顧問兼通訳の林昂(のちのアラビア石油専務)に「林君、僥倖だったね」とつぶやいたという(読売新聞20世紀取材班編『20世紀 高度成長日本』中公文庫)。山下が「僥倖」と言ったのは、ちょうど中東の産油国で資源ナショナリズムが台頭し、それまでこの地域の原油を独占してきた欧米系の国際石油資本(メジャー)への反発も高まっていたのを追い風に、利権交渉を進められたことを指すのだろう。もっとも、クウェートとの交渉は、メジャーが同国に圧力をかけるなど、けっして容易ではなかった。
アラビア石油の第1号井の掘削は1959年7月に開始され、翌60年1月29日にはついに日産能力1000キロリットルの出油を見た。1号井は「カフジ油田」と名づけられ、61年3月25日、日本に向けて最初の原油積み出しが行なわれるにいたる。カフジ油田を掘り当てるまでに、用意した資金は一時つきかけたものの、58年11月に海底下の調査により多数の有望地質構造が認められたとの報告を受け、さらに17億5000万円の増資が決まった。それでも例を見ない短期間、少ない資金で成功したことから、カフジ油田は石油開発史上の奇跡と言われた(『昭和 二万日の全記録 第12巻 安保と高度成長 昭和35年~38年』講談社)。アラビア石油はこのあとも、近辺であいついで油田開発に成功する。社長の山下はいつしか「アラビア太郎」と呼ばれるようになった。
なお、アラビア石油がサウジアラビアおよびクウェートと結んだ協定は、それぞれ2000(平成12)年と2003年に期限を迎えた。同社はその延長のため交渉を進めたが、結局更新はならず、両国での採掘権を失う。その後、アラビア石油は富士石油との経営統合(03年)を経て、13年には分割子会社としてJX日鉱日石開発テクニカルサービスを設立、その全株式をJX日鉱日石開発(現・JX石油開発)に譲渡した。これにともないアラビア石油本体は海外石油開発事業から事実上撤退している。