小田急は、下見客に無料乗車券を配布し、土地を購入した人には3年間の無料乗車証を与えるなど、必死の販促活動を展開する。しかし、分譲開始から10年経ってもなかなか思うように土地は売れなかった。
ちょうど林間都市計画が進んでいた昭和のはじめは、長引く不況の時代への入口にあった。さらに戦争の時代も目前に迫っていた。そうした社会背景に加えて、東京への通勤が当時の感覚にすればあまりに遠かった。
1955年の中央林間地区の人口はわずか1766人
最初期に林間都市に引っ越してきた人たちが、1940年に小田急に陳情書を出している。それをかいつまんでまとめると、引っ越してきてからは山火事や盗難に苦しめられて苦労ばかり、住宅がどんどん増えて便利になるはずだったのにまったくそうはならなかった、という。
結局、1941年には中央林間都市駅は中央林間駅に改称している。およそ“都市”とはいえない、雑木林の中の駅であった。戦後、1955年時点の中央林間地区の人口はわずか1766人だったという。
戦後もしばらくは大きな変化が起こることもなかった。今回歩いたような、東急線側の住宅地は、まだまだまったく生まれる気配すらなかった。きっかけは、なんといっても東急田園都市線の開業である。
田園都市線がやってきたのは1980年代になってから
田園都市線が中央林間駅までやってきたのは1984年のこと。同時に地下鉄半蔵門線の乗り入れもスタートしている。田園都市線乗り入れの時点で商業施設と一体となった駅ビルもオープンしており、さらに大型マンションも建設された。いまの“東急側”の駅周辺の形は、その当時にすでに完成したといっていい。
以後、中央林間駅周辺は文字通りめざましい発展を遂げる。田畑や雑木林はほとんどが住宅地に生まれ変わり、商業施設も増えて人口は急増してゆく。戦前、小田急の利光鶴松が抱いた“林間都市”開発の野望は、それから半世紀以上経って、期せずして東急の乗り入れを契機に実現したのである。
もちろん小田急が悪いわけではない。戦前の時点では、いくら理想的な生活環境といっても都心の職場まで1時間以上の通勤時間はなかなか受け入れられなかった。ほんの直前まで、職住一致が当たり前の生活スタイルが主流だったわけだからムリもない。
それが半世紀以上経って、1時間の通勤なんて当たり前の時代になったということも、中央林間の“都市化”につながったのだろう。
いまの中央林間駅。東急の商業施設や小田急側の駅周辺のいかにも私鉄らしい雰囲気の町並みを歩けば、なかなか便利で住みやすい町であろうことは容易に想像がつく。東急線では渋谷まで、小田急線では新宿まで、いまではどちらも約40分で結ばれている。
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