1ページ目から読む
3/3ページ目

 磯田 そうかもしれませんね。家康は豊臣政府の年寄(家老)を律儀に務めていたのに秀吉死後は一転。仕えていた秀頼を攻め殺し、豊臣家を滅ぼしてしまう。豊臣の家臣であった連中にすれば「狸に裏切られた」と言いたい気分になった。それも分からなくはない(笑)。

 徳川 司馬遼太郎さんの小説『城塞』の中でも、家康が家臣たちと一緒に、秀頼を陥れるための謀略を練っているんですよ。ただ本当は、家康が自分の意思だけで豊臣を亡ぼしたとは考えにくいんですけどね。家康が徳川幕府を開いてからは、皆で話し合いをして決める「大名共和制」だったとみています。

 磯田 私はもう1つ、「狸おやじ」論が出てくる源泉を知っています。それは天皇や公家。彼らは豊臣家のことが好きでした。たとえば後陽成天皇は、気前の良いパトロンだった豊臣家のおかげで、豪勢に暮らしていた。家康が秀頼を攻めると、後陽成天皇が「なんてヒドいことをするんだ」と問い詰めたふしがある。こうした「家康嫌い」の感情が色んなところで積み上がって「狸おやじ」像を作り上げたのでしょうね。

ADVERTISEMENT

磯田氏 ©文藝春秋

家来にズケズケ言われ……

 徳川 「どうする家康」では、家臣の三河武士たちからズケズケと意見を言われる「弱い家康」の姿が描かれていますよね。家康は鬱陶しそうにしますけど、家臣たちの声をしっかり聞いている。これまでの家康のイメージとは違うかもしれませんが、ずっと真実に近いと思います。

 磯田 そういう魅力のある人物だったのでしょうね。江戸時代の記録に残された伝説をみると、例えばこんな話がある。

 あるとき家康が自分の狩り場で勝手に狩りをした家臣に激怒して、土牢に閉じ込めたことがあった。すると、それを知った家康の家来が、家康がご馳走にとっておいた池の鯉と清酒を飲み食いしてしまった。家康は激高して薙刀を持ってその家来を追いかけ回すのですが、家来は言い返す。「殿は、人より獣を大事にするのか。もう殺されてもいいから盗んで飲み食いする」と。その言葉に打たれた家康は、牢屋にいた家臣を解放した、といいます。

 徳川 家康と家臣たちとの間に、強い信頼関係があったことが分かりますね。三河は、西の織田家、東の今川家、北の武田家と、強国に囲まれた弱小国でした。そういう環境で、同じ釜の飯を食い、同じ鍋の味噌汁をすすってきた経験が三河武士たちにはある。だから、家康への忠誠心も厚いんです。

徳川氏 ©文藝春秋

国際日本文化研究センター教授の磯田道史氏、徳川記念財団理事長の徳川家広氏による対談「徳川家康を暴く」全文は、「文藝春秋」2023年4月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されている。

 

文藝春秋

この記事の全文は「文藝春秋 電子版」で購読できます
徳川家康を暴く