「スイッチヒッターをモノにできなければ自分の居場所はない」
栗山はヤクルトに入団後は内野手、とりわけ二塁手として基礎練習を繰り返す日々を送っていた。当時を橋上はこう記憶している。
「技術的にはお世辞にもプロのレベルにはほど遠い感じでしたが、当時の内藤博文二軍監督が付きっきりで栗山さんと居残り練習をしていたのは覚えています」
栗山自身、当時は「チーム内で一番下手くそだった」と振り返る中、内藤から守備だけでなく徹底的に鍛えられた。その甲斐もあって、1年目の終盤に神宮球場での大洋戦でデビューし、その年のオフにチームの野手最年長のベテランだった若松勉と、スイッチヒッターへの転向を図るため、左打ちの練習を始めた。その光景を橋上は今でもよく覚えている。
「とにかく死に物狂いで取り組んでいて、鬼気迫るものがありました。国立大卒で半ば練習生のような扱いでプロ入りしたことで、他の選手に大きく後れをとっていた。それだけに、『スイッチヒッターをモノにできなければ自分の居場所はない。だから左でひたすらバットを振るしかないんだ』と強い信念を感じました」
2年目にはジュニアオールスターに選出され、3年目は開幕一軍の座をつかんだ。だが、2年目に発症したメニエール病が、現役生活を続けていく上での不安の種となっていく。栗山が病気で治療しながら現役を続けていることは、チームメイトの耳にも入っていた。入団4年目には一軍監督に関根潤三が就任。88年は規定打席に33打席不足していたものの、打率3割3分1厘を記録。89年にはおもに2番を任され、プロ入り初の規定打席に到達し、守備範囲の広さも評価されてゴールデングラブ賞を初受賞した。
「とにかくガッツあふれるプレーが魅力でした。地方での試合で外野のフェンスに激突して倒れたときも、立ち上がって懸命にプレーしている姿は、病気を感じさせないほどの迫力を感じていました。
入団時こそ技術的に劣っていたプレーそのものも、日々の努力でプロの一軍レベルにまで到達させた姿勢は、当時一軍と二軍を行ったり来たりしていた私にとっても、大いに学ぶものがありました」
橋上は当時をこう回想する。
分岐点となった野村監督からの辛辣な評価
栗山にとって現役生活の大きな分岐点となったのは、89年オフに新たに監督として就任した野村克也の存在だった。野村は選手の意識改革に取り組んだ。ときには選手から反発を食らうこともあったが、野村はどこ吹く風とばかりに自分の信念を押し通した。
当時のヤクルトの主力となっていた池山を筆頭に、広沢克己、セ・リーグの新人王を獲得した笘篠賢治といったレギュラークラスの選手も例外ではなかった。当時、ベンチにいた橋上はこう振り返る。