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 だが、プロ入り後はあまりのレベルの高さに衝撃を覚え、「上には上がいることを嫌と言うほど思い知らされた」と栗山はメディアで語っている。このことは橋上も同様で、オープン戦でドラフト1位の高野のボールを受けた際、レベルの違いを思い知った。

高野光(92年日本シリーズ) ©文藝春秋

「その日の試合で高野さんが登板することになっていたので、コーチから『橋上、高野のボールを受けてくれ』と言われてブルペンに向かいました。ところがストレートの伸びがすごくて、グイと浮き上がってきたのです。私はどうにか捕りましたが、『次はカーブ』とゼスチャーしてから放ってきた高野さんのカーブは、一瞬視界から消えたんです。『えっ⁉』と咄嗟に思ったのもつかの間、目の前にボールが落ちてきて、捕球するどころかキャッチャーミットに触れることすらできませんでした。

 それを見たコーチが、『もういい。橋上、代われ』と呆れたように言われ、以降キャッチャーをやることはなくなりました」

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 以降、橋上は内野手、その後は強肩と俊足を評価されて外野へとコンバートされていく。

合宿所では6畳和室の2人部屋

 一方で橋上と栗山は、入団1年目から2年目まで合宿所で同部屋だった。ヤクルトの合宿所は埼玉県戸田市にあった。当時は一戸建てのような造りで1階には食堂や風呂場、トイレ、洗濯スペースがあり、1階と2階に4畳半の和室3部屋、6畳の和室3部屋の合計6部屋があったのだが、橋上と栗山にあてがわれたのは6畳の和室だった。

現役時代の栗山英樹監督(1989年) ©時事通信

「当時の合宿所は4畳半が1人部屋、6畳が2人部屋だったのですが、布団を敷いたら物が置けなくなってしまうような部屋でした。冷暖房もなかったので、冬は寒くて夏は暑いのは当たり前。年末年始と遠征で合宿所を離れるとき以外はこの部屋で過ごしていたことを考えると、よくやっていたなと思いますね」

 また漢字は違えども、2人は「ひでき」という名前だったことで妙な親近感を覚えていた。コーチからも「下の名前で呼ぶと、どっちなんだかわからなくなるから、お前さんたちは名字で呼ぶからな」と言われたこともあった。

 栗山とは野球の話はほとんどせず、他愛もない話をよくしていたという橋上。それに体育会系の人にありがちな先輩風を吹かすということも全くなく、気さくにフレンドリーに接してくれた点は、「非常にありがたかった」と言う。ただ、入団1~2年目の頃の橋上は、部屋で長く過ごすことはほとんどなかった。

「高卒選手は洗濯や掃除などの雑用を多く任せられていたため、同級生の池山や桜井(伸一・ドラフト4位で入団)らと洗濯物を畳んでいるときや、あるいは食堂で後片付けをしているときにいろんな話をしていたことのほうが多かったですね。入団して1~2年目の頃は、部屋に戻るときには寝るだけのために戻る、なんてこともしょっちゅうありました」