科学者が一流でも政治指導者が無策なら国家は滅びる――。昭和史家・保阪正康氏の連載「日本の地下水脈  第30回 日本の『原爆開発』秘話」を一部転載します。(月刊「文藝春秋」2023年4月号より、構成:栗原俊雄)

◆◆◆

戦時中の原爆開発計画を検証

 戦後長らく「科学技術立国」として世界をリードしてきた日本の地位が、急激に凋落している。半導体に代表されるハイテク産業は欧米どころか中国・韓国の後塵を拝し、基礎研究の分野でも目立った業績が出てこない。海外の大学や研究機関への頭脳流出も進んでおり、今後日本からはノーベル賞受賞者が出なくなると危惧する科学者も少なくない。

 日本の科学技術への信頼性が大きく揺らいだのは12年前の東日本大震災の直後に発生した福島原発の事故だった。「絶対安全」と謳われた日本の原子力政策が、科学的な客観性よりも政治的判断が先にありきで決められてきたことが露呈した。さらに災害など有事に対する甘い見通しの下、原子力業界そのものが補助金などぬるま湯に浸かってきた構造も明らかになった。

ADVERTISEMENT

 かつて私は、太平洋戦争中に日本が原子爆弾の開発をしていた経緯に関心を持ち、計画に関与していた科学者たちに取材を重ねたことがある。

 結論を先取りするかたちになるが、戦前の日本には世界基準で見ても優秀な科学者が数多くいた。しかし、政治・軍事指導者が科学に対する理解をあまりにも欠いていたがために、彼らの能力を生かすことができず、原子物理学の研究そのものが歪められてしまったのである。

 戦後78年が経とうとしている今、科学技術軽視の風潮と、政治指導者の無理解によって科学の発展が歪められてしまうという地下水脈は、今なお日本社会に流れているように思えてならない。

 そこで今回は、戦時中に秘かに進められた原爆開発計画を検証しつつ、日本の科学と政治に内在する問題点を見てみたい。

保阪正康氏 ©文藝春秋

物理学に身を投じた俊才たち

 江戸時代、日本にはオランダからもたらされた科学書を研究する蘭学者たちがひそかに西欧の近代科学に触れていた。また、関孝和に代表される和算の歴史もあり、日本独自の数学も発展した。そして明治維新後、欧米の文化、技術が日本に流れ込むと、才能溢れる学徒たちは近代の自然科学に惹かれていった。

 当時、最も勢いのあった分野は物理学であった。物質が原子でできていることがわかり、その原子の構造の解明に注目が集まっていた。ルートヴィッヒ・ボルツマン、アーネスト・ラザフォードら、天才たちがミクロの現象の解明にしのぎを削っていた。原子の中心には原子核があり、その周囲に電子が雲状に存在することは今では中学生でも知っているが、それが解明されたのは高々この100年間のことに過ぎない。

 日本でも俊才たちが物理学に身を投じた。日本人で初めてケンブリッジ大学で学位を取得した菊池大麓、土星型原子模型を提唱した長岡半太郎、根尾谷断層を発見した田中舘愛橘(たなかだてあいきつ)、世界初の永久磁石鋼「KS鋼」を発明した本多光太郎らが第1世代である。彼らが日本の科学界の牽引役となった。

 明治28(1895)年に日清戦争に勝利すると、政府は清から得た莫大な賠償金を利用して若手科学者を次々に西欧に留学させた。その第2世代にあたるのが、「量子力学の父」ニールス・ボーアの弟子である仁科芳雄(のちに理化学研究所所長)や京都帝大教授の荒勝文策らである。さらにその後継者として、湯川秀樹、朝永振一郎、嵯峨根遼吉、坂田昌一ら、世界的な原子物理学者が日本から輩出された。

仁科芳雄博士 ©時事通信社

ロス・アラモスで極秘開発

 原子物理学のあり方を大きく変えたのは、1930年代に放射能の研究が進んだことだった。1934年、イタリアのエンリコ・フェルミは中性子をウランに照射して新元素を得たと発表。1938年にはドイツのオットー・ハーンらがウラン235に中性子を当てると核分裂し、莫大なエネルギーを発することを発見した。さらに翌39年には、核分裂の連鎖反応が可能であることが証明された。ということは、核分裂をうまく制御すれば、巨大なエネルギーを生み出せる――人類は「第三の火」を手に入れたのである。

 しかし、世界はおりから戦争とファシズムの時代へ突入していた。欧州ではヒトラーのドイツがユダヤ人への迫害を強めていた。ユダヤ系の優秀な物理学者たちは迫害を逃れるため、こぞって米国に渡った。ボーア、フェルミのほか、特殊相対性理論のアルバート・アインシュタイン、「水爆の父」として知られるハンガリー出身のエドワード・テラーなどがその代表格である。