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 米国に渡った物理学者たちが危惧したのは、ヒトラーが原子力を戦争に使う可能性であった。1939年、アインシュタインはルーズベルト米大統領に手紙を書き、ウラン爆弾(原爆)開発に乗り出すよう提言した。彼は後年、この提言を後悔するのだが、当時は「もしヒトラーが先にこれを手にしたら」という恐怖感が大きかったのである。

 当初米国政府は消極的だったが、ナチスドイツは欧州を軍事的に席巻した。しかもドイツにはわずか31歳でノーベル物理学賞を受賞した若き天才ヴェルナー・ハイゼンベルクがいた。米国は国を挙げて原爆開発に取りかかることにした。1939年から極秘裏に諮問委員会で検討が始まり、42年夏、「マンハッタン計画」が本格始動した。中心となったのはカリフォルニア大教授のロバート・オッペンハイマーだった。ニューメキシコ州ロス・アラモスに研究所が設立され、全米から優秀な科学者を結集し、研究開発を開始した。

 問題は、ウランの分離であった。核分裂をするウラン235は、天然ウランの中にわずか0.7パーセントしかない。ウラン235の分離・濃縮は気の遠くなるような作業だが、米国政府は基礎研究への援助を惜しまず、全面的にバックアップし続けた。

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湯川秀樹氏 ©文藝春秋

 さて、日本はどうだったのか。かつて私は日本の原爆製造の内実を詳細に調べたことがある。著書も上梓した。その際の取材などをもとに、記述を進めて行く。

理研で始まった「ニ号研究」

 開戦前の昭和16(1941)年春頃まで、世界の原子物理学の最先端の情報はむろん日本にも入ってきていた。当時、理化学研究所にいた田島英三(のちに立教大学名誉教授)は、昭和50年代に私の取材に答えて、「理研にはトップクラスの物理学者が集まり、研究費も出るので、大学院に残るより難しかったんです。仁科芳雄先生は非常にフランクな人で、研究室の雰囲気もボーアのコペンハーゲン学派の雰囲気を取り入れて、自由な精神にあふれていました」と回想した。仁科は人間的にスケールの大きな人物だったらしく、弟子たちは親しみを込めて仁科のことを「親方」と呼び、自由な環境で研究に没頭していたという。

 しかし、彼らもまた否応なく戦争の渦に巻き込まれて行く。

 昭和15年、陸軍航空本部長の安田武雄は核分裂に興味を持ち、部下の鈴木辰三郎に「ウラン爆弾の可能性があるのか否か、調査せよ」と命じた。安田は陸軍から東大の電気科に派遣され、理科系の知識には秀でた軍人だった。鈴木もまた東大の物理学科に派遣された経歴がある。鈴木はこう回想していた。

「理研の嵯峨根遼吉先生から話を聞き、自分でも計算してみて、『原爆ができる可能性はある。ウラン鉱石も日本に存在する』という資料をまとめ、安田さんに提出したのです」

 嵯峨根は前出の長岡半太郎の子息であり、カリフォルニア大学で原子物理学の最先端を学んでいた。

 鈴木の報告を受けた安田は、陸軍大臣の東條英機にウラン爆弾開発を具申した。すると東條は「では専門家に研究させてみよ」と答えたという。こうして昭和16年5月、「ウラン爆弾研究、製造の可能性について」の研究依頼が仁科のもとに届けられた。この研究は仁科の頭文字をとって「ニ号研究」と呼ばれた。

 仁科は武谷三男(のちに立教大学名誉教授)ら若き俊英を研究に当たらせていた。だが、仁科自身は早い段階で原爆開発は到底無理であると見切っていたようだ。私は昭和50年代、仁科研に所属していた研究者たちに取材を重ねたが、彼らの多くは2つのことを強調していた。「仁科先生は原爆開発製造などできるわけがないと考えていた」こと。そして「それでも、可能か否かの研究は行った」ということである。元研究員の1人は、私の取材にこう話した。

「日本で原爆などできるわけがなかった。そのことは自分たちも当時よく分かっていた。ただ完成に至る理論はあるのだから、そこに向けて努力を続けていた」

 別の1人はこう語った。

「原子核の基礎研究を続けたが、原爆製造のためとはまったく思っていなかった。そもそも実験段階でもウランがまったくないわけだから」

海軍は「F号研究」を開始

 一方、陸軍だけでなく海軍も独自に核開発への興味を示す。海軍艦政本部第1部第2課にいた大佐の三井再男の証言では「軍で初めて原子力に目をつけたのは海軍技術研究所電気研究部の佐々木清恭部長と伊藤庸二技術大佐です。昭和14年夏、二人が中心となり『原子核物理研究』なるテーマで研究が始まった」とのことだ。この動きは海軍内部でも秘匿されていたが、京都帝国大学の荒勝文策教授に依頼して研究を進めた。こちらは「fission(核分裂)」の頭文字を取って「F号研究」と命名された。湯川や坂田など名だたる研究者もスタッフとして名を連ねた。

 もっとも荒勝も早い段階で「今回の戦争中に製造の実現はできない」と海軍に伝えていた。三井によると、ここでの研究内容は、第1に原爆ができるか否かの可能性の研究、第2に使用されたときに混乱しないための研究、第3に戦時下でも原子物理学を守り育てようというもので、「製造はずっと先のこと」という暗黙の諒解があった。その点では海軍のほうが冷静であった。

 海軍は京都帝大以外にも研究の幅を広げようと模索した。昭和17年7月〜18年3月、東京の水交社で十数回にわたり「核物理応用研究委員会」が開かれた。伊藤が主催し、仁科が委員長を務めた。大阪帝大の浅田常三郎によると「実際に参加していたのは、仁科さん、大阪帝大教授の菊池正士さん、それに私(浅田)の三人で、海軍からは伊藤さんらのメンバーでした」という。

 浅田によると、「今度の戦争の間には造れないだろう」との結論に達したという。さらに「米国も無理だろう」との意見でまとまった。そこで海軍としてもひとまずウラン爆弾には積極的に着手しないとの意向を固めた。

 このとき仁科は、陸軍からも海軍からもあれこれ言ってくるのは困る、窓口を一本化してほしいと要求した。そこで海軍は理研から手を引き、陸軍は理研で「ニ号研究」、海軍は京都帝大で「F号研究」に専念することになった。ただ、両方の研究者とも、「今回の戦争ではウラン爆弾の開発は無理」との結論で一致していた。

 ところが、事態はその通りには進まなかったのだ。

東條英機からの命令

 一方、仁科は海軍の結論とは別に、陸軍の問い合わせには「原子核分裂によるエネルギー利用の可能性は多分にある」とする報告書をまとめ、陸軍航空本部に提出したのだ。なぜ仁科は無理を承知でこのような回答をしたのか?――これは昭和史の謎のひとつである。もちろん軍部からの圧力が最大の理由だろう。同時に、陸軍と科学者、あるいは陸軍と海軍の間で相当な駆け引きが行われていたことも窺える。仁科が戦時下でも日本の原子物理学の研究レベルを低下させないよう、研究費獲得のために無理を承知でこのような回答をしたとも推測できる。

 報告書には「31キログラムの水に濃縮ウラン11キロを混ぜた場合、普通の火薬1万トンのエネルギーに相当する」との計算も示されており、米国が広島に投下した原爆と同じ威力であることを、ほぼ正確に見通していた。

昭和史家・保阪正康さんによる「日本の地下水脈 日本の『原爆開発』秘話」全文は「文藝春秋」2023年4月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。

文藝春秋

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日本の「原爆開発」秘話