父は元ジョッキーの調教師、小3から乗馬を始めて、県大会で3連覇。JRA競馬学校でも、すぐ上にいけるだろうと夢見ていた川田将雅少年だったが、現実はそう甘くなかった。
日本を代表するジョッキー・川田将雅が、競馬学校時代に最初に味わった「挫折」を、初の著書『頂への挑戦 負け続けた末につかんだ「勝者」の思考法』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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自信満々だった僕が競馬学校ではBクラス
子供の頃、年に1度だけ、佐賀競馬場にあふれんばかりのお客さんが入る日がありました。
それはJRAとの交流重賞、佐賀記念の日です(2001年にサマーチャンピオンが創設され、以降、佐賀競馬場で行われる指定交流重賞は年に2レースに)。
武豊騎手をはじめとするJRAのスタージョッキーとスターホースをひと目見ようと、その日の佐賀競馬場は見渡す限りの人、人、人。
子供だった僕の目には、その光景が「真っ黒」に見えたものです。
当時の僕にとって、中央競馬や海外競馬は、ブラウン管の向こうに広がっていた、いわば別世界。
でも、この日だけは、中央競馬の華やかさに直接触れられると同時に、「地方競馬との差」を思い知らされる日でもありました。
僕自身の経験として、その差を最初に目の当たりにしたのが、JRA競馬学校の試験です。
2次試験は、JRAの競馬関係者の子供たち、いわゆる「トレセン(トレーニングセンター)組」と、「そうではない組」に分けられ、別日程で実施されたのです。
僕が勝手に卑屈になっていただけかもしれませんが、そうやって分けられたこと自体が、当時の僕にとっては屈辱でした。
年に1度の佐賀記念の賑わいを思えば、中央競馬と地方競馬のパワーバランスは身に沁みていましたが、スタートから劣等感を刺激されたのは事実です。
僕は、中学2年から3年にかけて、春・秋に行われる障害馬術の福岡県大会を3連覇。今となっては、いい馬に乗せてもらい、つかまっていただけで、当時の僕がいかに下手くそだったかは自分が一番よくわかっています。
ですが、当時は自信満々。輝かしい実績を引っ提げて、中央競馬に殴り込み……くらいに勢いづいていたと思います。
実際、競馬学校に入学する前も、「どうせ1年生の授業は乗馬が中心なんやから、俺は2年からでいいくらいやわ」と本気で言っていました(笑)。まぁそんな自信は、すぐに木っ端みじんに打ち砕かれるんですけどね。