少し前の話ですが、WBCでの侍ジャパンの試合を観戦していたときに「おやっ?」と思った出来事がありました。インターネット配信を行なっていたAmazonプライムビデオでの実況の評判が世間的にはえらく不評だったことと、自分が見ているSNSのタイムラインでは「むしろ高評価」の声が続々とあがっていたこと、その両極端ぶりにです。
どうやら世間的には、単なる難癖ではなく本当に不評を買っているようでした。検索をすれば出るわ出るわの不評悪評の山。「アマプラ 実況 嫌い」で検索するとほぼ全員が不満の声をあげていたほどです。一方で、自分のタイムラインには実況を担当する斉藤一美アナウンサーの技量の高さや表現力を高く評価する声がズラリと並んでいました。
そこにどんな差があるのかと考えたとき、やはり自分のタイムラインに並ぶのはフォロー関係などから「埼玉西武ライオンズのファン」が多いことが影響しているものと思われました。「むしろ高評価」の声の多くは、タイムラインでよく見かけるライオンズファンの面々でしたので。
文化放送ライオンズナイターに慣れているか否かの差が生んだ両極端
そういった極端な差を生んだことについては、ライオンズ独自の文化圏の影響が挙げられるでしょう。ライオンズを報じる電波メディア文化圏において特に強い存在感を示しているのは、1980年代の黄金期からつづくラジオ中継「文化放送ライオンズナイター」です。かつては「はっきりいってライオンズびいきです‼」を標榜し、パ・リーグ全体を応援するという建前で中継を行なうようになった現在でも、ライオンズが痛恨の同点弾を浴びると普通に「やられたー!」などと実況するライオンズ応援中継は、ライオンズファンにとっては宝物のような存在です(※他球団ファンにとってはイラつく厄介中継でしょうが)。CS放送やネット配信で全試合の映像を見られる現代にあっても「あえて」文化放送ライオンズナイターを聴きながら試合を見るファンも存在するような蜜月関係が、ライオンズ電波メディア文化圏ではつづいているのです。
翻って今回のAmazonプライムビデオでのWBC実況への両極端な評判を見ると、その多くは「文化放送ライオンズナイター」的なるものへの慣れの有無というところで説明できるように思われました。今回Amazonプライムビデオで実況を担当した斉藤一美アナは、現在も含めて長く「文化放送ライオンズナイター」を担当しており、ご本人もライオンズファンを公言しているアナウンサーです。当然、ライオンズファンは普段から斉藤アナの実況に慣れ親しんでいます。
「情報量が多過ぎる、ストライク!だけやたらと声量が大きい」といった声は、「映像がないなかで状況を伝える」ラジオ中継の技術が映像付きの視聴環境にマッチしなかったもの。「雑談が多い、居酒屋のようだ」といった声は、映像がないラジオ中継で培った「切れ目なく話しつづけるスタイル」によるもの。一方的な展開の試合を「打撃練習」と表現したことなどに対する「リスペクトに欠く、失礼」といった声は、長年のライオンズ応援中継で染みついた「一方に肩入れするスタイル」が出てしまったもの。そして今さら不評を買うというのは「文化放送ライオンズナイター」を聴いているのはライオンズファンくらいのものだから、ということではないかと思うわけです。
やる方も聴く方も互いに「不慣れ」ななかで、中継全体への不満やストレスが積み重なっていくと、どんなアナウンサーにでも起こり得るような実況ミスや、自分の好みに合わない表現には強い拒否反応が出るものでしょう。逆にライオンズファンは普段からそうしたスタイルの中継に慣れ親しんでおり、斉藤アナへの親しみも強いので、世間的には不評が噴出するなかでも「むしろ高評価」へと評判が割れたのだろうと思います。
聴取者がチューニングを合わせる時代から、配信側が利用者に合わせてカスタマイズする時代へ
とは言え、実況への不評の声は試合を重ねるごとに静まっていきました。斉藤アナがラジオ中継のスタイルからテレビ向けの中継スタイルにシフトし、「見ればわかる話」には実況をつけないようにしたことで、視聴者側の気になる度合いが減っていったのです。言葉を減らしたなかでも際立つ表現力はいつしか視聴者の心をつかみ、最後の最後の歓喜の瞬間を伝えた「マイアミに嬉しい桜が咲きました!」は名実況として賞賛の声を集めるに至りました。これは非常に現代的だなと感じる出来事でした。
かつては野球中継を見るのに複数の選択肢などなく、好きでも嫌いでもやっている中継を見るしかない、というのが当たり前でした。僕の郷里ではテレビのチャンネルが「全部で4つ」しか映らず、ライオンズの途中経過を知るためにジャイアンツの試合を見ていました。ジャイアンツへの愛情は特になく、心情的には球界の覇権を争うライバルと思っていましたので(※今は昔)、その状況を楽しむために「ジャイアンツの対戦相手を応援する」というアンチ巨人の観戦スタイルを身に着けました。テレビにジャイアンツの試合を映しながら、韓国のラジオと混信してハングルの合間にかすかに聴こえる文化放送ライオンズナイターに耳をそばだて、ライオンズを応援していたのです。「中継に自分が合わせた」のです。
しかし、今はビッグデータやAIといった技術の進化もあり、「世界が自分に合わせてくれる」ようになりました。Amazonプライムビデオなどまさにそういった環境で、「あなたが興味のありそうな映画」をズラリ並べてオススメしてきます。ネットで配信される広告や、表示される検索結果も自分の興味関心・行動履歴に合わせてカスタマイズされたものたちです。かつては「私はこれを嫌いだが、これしかないから仕方ない」で留まっていた不満たちも、「AIで何とかならないか?」という方向に向かっているのが現在です。
ラジオという「コチラがチューニングを合わせる」メディアと、インターネットという「配信側がコチラに合わせてカスタマイズする」メディアとが交錯したときに、不評悪評が噴出した末に「メディアの側がコチラに合わせる」ような流れが起きたことは、非常に現代的であり象徴的な出来事だったと感じるのです。もはやコチラが合わせるのではなく、メディアが合わせるのがスタンダードな世界になっているのだと。