4月5日の西武戦。楽天モバイルパークのマウンド上には普段よりも気持ちが高ぶっている松井裕樹の姿があった。1−0の9回に名前が呼ばれると、いつものように仕事場へと向かった。これまで積み重ねてきたセーブ数は「199」。史上9人目、しかも史上最年少(27歳5か月)での大記録達成の瞬間を見逃さないようにと、観衆の視線は自然と背番号1に注がれていった。それを感じたであろう松井も「思っていた以上に力みがすごくて」と普段と違う心境だった。
この言葉が表す通り、2死二、三塁のピンチを招いたが、そこは幾多の修羅場をくぐってきた守護神。マウンドに来た炭谷の「同点(までは)オッケーじゃないぞ!」との言葉に奮起し、最後は中村を直球で中飛に抑えて両手を突き上げて喜んだ。15年3月28日の日本ハム戦(札幌ドーム)でプロ初セーブを挙げてから2930日目の偉業達成を祝して希代のクローザーはどう育ち、プロの世界にたどり着いたのか――。父・良友さんのエピソードを元に「松井裕樹の半生」に触れてみたい。
「こんなにいい投げ方をする子はいないよ」
神奈川・横浜市生まれ。元石川サンダーボルトで野球を始めた頃。地元には巨人、ロッテで活躍し、現役引退後はロッテ監督や巨人のヘッドコーチなどを務めた山本功児氏が住んでいた。「ご近所という縁もあって練習を見てもらった」と父・良友さんが振り返る。「山本さんからは『この子はプロに行く』と言われていました」。当時はまだ150センチ程の小柄な体格だったが、プロの先人は天賦の才があることを見抜いていた。
小学6年時にベイスターズジュニアに選出された時は「当時監督を務めていた平松政次さんから『こんなにいい投げ方をする子はいないよ』と言われて……。あの時はピンとこなかったですけど、ここまでこられたのは本人の努力です。親が云々かんぬん言うことはなかったです」と良友さんは懐かしそうに記憶を思い起こした。
プロへの道が大きく開かれたのは桐光学園2年で出場した12年夏の甲子園。1回戦の今治西戦で大会史上最多10連続奪三振と1試合(9回)22奪三振を記録し、名前が全国に知れ渡った。
「小学生の時はプロになるとは思っていなかった。高校の時も大学に行くつもりでしたけど、高校2年の甲子園で(奪三振の)記録を作っちゃったもんだから、周りが大騒ぎして……」。メディアをはじめ、高校球界のニュースター誕生に周辺も色めき立ったが、良友さんは父親として冷静に息子の今後を考えていた。