4月2日、71年の生涯に幕を閉じたことが報じられた音楽家の坂本龍一。20年以上取材を続けたライターが明かす、知られざる実像と遺された“ラストメッセージ”。
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授業をさぼり、名画座、ジャズ喫茶に入り浸った新宿高時代
坂本さんは1952年1月17日に東京都中野区に生まれた。父は埴谷雄高や三島由紀夫を手掛けた高名な文芸編集者の坂本一亀。幼稚園のときにピアノに触れ、やがてピアノ、作曲の道に進むことになる。中学、高校時代は音楽に夢中になっていたという。
<自分が夢中になっている音楽の話を共有できるような友だちは、周りにはいませんでした。学校にもいなかったし、家に帰ってもいなかった。譜面を見ながら自分でぽろぽろ弾いてみて、どうしてこんな音がするんだろう、なんて思っていた。ひとりで音楽と語らっているような感じでしたね>(2009年。自伝『音楽は自由にする』より)
10歳のときから日本を代表する作曲家、松本民之助に師事し、高校生の頃にはすでに周囲から神童と評されていた。新宿が日本のサブカルチャー、カウンターカルチャーの中心地だった頃、新宿高校に通い授業をさぼっては名画座とジャズ喫茶に入り浸っていた。当時は政治の季節でもあり、デモに出かけることは日常茶飯事。高校をバリケード封鎖したこともあった。
1970年、東京藝術大学の作曲科に入学し、松本民之助はもちろん、小泉文夫らに学んだ。大学卒業後はそのまま藝大の大学院に進学。この頃から本格的な音楽活動を始めることになった。
最初はスタジオ・ミュージシャンとして、やがて名うてのアレンジャーとして音楽業界に名前を知られていくことになる。
音楽家の土屋昌巳には坂本さんの才能を確信した瞬間があるという。1970年代半ばにりりィのバック・バンドで坂本さんと一緒で、あるときスタジオのラジオから当時注目され始めたレゲエ・ミュージックが流れた。土屋さんがなにげなく、「こういうの演奏してみたいね」と言うと、坂本さんはラジオを聴きながらその場で五線譜に鉛筆を走らせ、各楽器のパート譜を次々に仕上げ、バンド・メンバーを驚愕させた。