1980年も半ばに入ると想像もしていなかったほどのYMOブームとなった。街を歩くと人に指を差されるような状態となって外出を控え、精神的に消耗することも多かった。
そうした葛藤を抱えながら1983年に5年にわたるYMOの活動を終え、それからはソロ・アーティストとして活躍していくことになる。YMOの解散(散開)の年に公開された大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』に俳優として出演するほか、音楽も手掛けたことで以降のソロ活動には、映画音楽の制作という大きな柱も加わることになった。
<最初は新鮮な遊び心があって、機械の進化やレコーディング方法の進化もあったのがわかりやすい。まだYMOの方向性を探ってる感じがする。それがおもしろい。2枚目の『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』からすでにちょっとYMOに飽きている気がする(笑)。というのもYMOの方向が確立してきて、スタイルがもうできちゃった。それで飽きちゃったから『BGM』『テクノデリック』になって、実験というか遊びになって、(中略)最後の年になると、いきなり歌謡曲になって。なんか投げやりな感じですね>(2003年に、ベスト盤の監修のためにYMOの全作品を時系列で聴き直したときの感慨)
「世界のサカモト」と呼ばれることを好んでいなかった
ソロ・アーティストとしていくつも名作アルバムを発表する中、イタリアの巨匠、ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画『ラストエンペラー』でも出演と音楽を担当。この『ラストエンペラー』の音楽で1988年、日本人として初めてのアカデミー賞作曲賞を受賞することになった。
<ベルトルッチ監督やプロデューサーのジェレミー・トーマス、そしてすべての友人、スタッフ、アシスタントに感謝します>(4月11日、シュライン・オーディトリアムでのアカデミー賞授賞式スピーチ)
1990年にニューヨークに移住。それまで以上に海外での活動が盛んになり、1992年にはスペイン・バルセロナで開催されたオリンピックで開会式の音楽を作曲し、会場で指揮をしたことも大きな話題になった。生前のご本人が好んでおられなかった呼称の「世界のサカモト」が世に膾炙していくことにもなったのだが…。
また、1999年にはCMに提供したピアノ曲「エナジー・フロウ」が大ヒットし、インストゥルメンタル曲での当時初のオリコンチャート・ナンバーワン、ならびに最高齢でのチャート・ナンバーワンも記録している。
盛んな音楽活動とともに、1990年代はアクティヴィストとして内外の社会問題にも積極的に発言し関与していくことになる。2001年の9.11の直後には世界の識者の論考を集めた編著『非戦』を監修し、ベストセラーになった。
2000年代もさまざまな活動を意欲的に行なったが、2011年の東日本大震災とそれに伴う福島第一原発の事故はその後の活動に、そして人生観に大きな影響を与えることになった。