東北の被災地への支援活動を積極的に行い、地震と津波で失われた東北各県の学校の楽器の修復や寄贈のための活動は、やがて被災地の子供たちによる東北ユースオーケストラの結成につながり、代表、音楽監督である坂本さんは以降、愛のある眼差しで熱心に指導された。
生前、無理を押して最後に人前に出たのも2022年3月の東北ユースオーケストラの東京公演に吉永小百合と一緒に出演したときだった。お亡くなりになる直前の2023年3月26日の東北ユースオーケストラの東京公演も、立ち会うことこそ叶わなかったがリモートでその演奏を見守り、「素晴らしかった!! よかったです。みんなありがとう」という賛辞を贈っている。
近年は若い世代を応援し、育てる活動にも熱心だった。編纂した音楽業書『schola』シリーズとそれに関連したNHK Eテレの『音楽の学校 schola』なども記憶に新しい。
声を荒げたり、激昂することはなかった。いつも穏やかで優しい人だった
2014年に中咽頭癌を発症し、闘病生活を送ったが回復途上から仕事を始め、2015年には母校の東京藝大で1回限りの特別授業も行なった。このとき、坂本さんは「授業が終わったら学生たちみんなと飲みに行きたいな」という希望を漏らしたが、この授業が12月24日のクリスマス・イブの実施ということで、店の確保が困難なことと学生たちもそれぞれ予定が入っているだろうとのことで断念された。
残念そうだったが、これはまさに面倒見のよい“教育者”坂本さんの人となりを表すエピソードだろう。
若い世代のみならず、ぼくが知っている坂本さんは誰に対しても親切で優しかった。ご本人の言によると若いころは気性が激しかったとのことだが、ぼく自身は親しくさせてもらってこれまでの20年間、声を荒げたり、激昂されるという姿をいちども見たことがない。いつも穏やかでユーモアたっぷりで、気さくだった。
その20年近く前、あるとき突然に「君は評論家なのか?」と訊かれた。評論家ではなく、好きな物事を世に広める紹介屋でしょうかと返したところ、「よし、じゃあ、きょうから友だちになろう」と利き腕の左手を差し出され、握手した。その日、同行したパーティーでは「友人の吉村くんです」といろんな人に紹介してもらい、ありがたさで呆然としたことをいまでもはっきりと憶えている。
2020年3月に東京でインタビューしたのが、坂本さんと対面でお会いした最後になった。その直後から世界中で新型コロナウィルスによるパンデミックが顕著になり、以降はリモートでの毎月のインタビューが恒例になった。