「スポーツカーのエンジニアは、痩せたソクラテスであれ」
多田は今井を含めた3人の意見を聞く方に回った。この2カ月間に彼はすっかり健康を取り戻して血色もいい。朝食も食べて出社するようになっている。以前は何とか腹に入れても、歯磨きをしているときに洗面所で吐いてしまうことがあった。
頼りない希望であっても、それは人間に意欲と食欲をもたらすのだ。妻の浩美はそれをよく承知していて、毎朝、食卓に味噌汁や卵料理、鯵の開きといった定番に加え、煮物のような一品を付けたりしていた。そのために彼は一時、10キロも太って、慌ててダイエットをすることになった。
「スポーツカーのエンジニアは、痩せたソクラテスであれ」というのが、彼の小さなポリシーである。
さて、小会議である。選択肢は無数にあった。
「うちが得意のハイブリッド車はどうですか」
「やっぱり、FRの車を作れませんかね」
「いや、四駆を使って、コンパクトな面白い車作れないかな」
「他社のエンジンを使ったスポーツカーという手もありますね」
「でも面白さで言うと、FRしかないよね」
車好きのエンジン技術者らがスポーツカーの夢を語るのだから、話は専門的でどこまでも広がっていく。すると、一番年下の今井が決めつけるような言い方をした。
「欲しいのはやっぱり…」
「欲しいのはやっぱりコンパクトなFRでしょう。だったら、ハチロク復活に決まってますよ」
無邪気に見えるが、眼鏡の奥の目は笑っていない。彼の率直で飾らない物言いに多田は驚いて、「おいおい」とたしなめた。エンジンの担当者たちは笑って、今井の言葉を聞き流そうとした。特定の車について語り始めると、話が続かなくなる。
「まあ、今井が言うならハチロクだろうけどな」
今井がそのハチロクしか乗らないことは技本では有名だった。独身の今井は周囲から少し浮いて、出世を急がないところがある。だが、当人は自分が変わっているとは思っていなかった。技術部の若手には自分のような人間がいっぱいいて、俺はみんなを代弁しているだけだと考えている。
確かに、その場を仕切る多田も「スポーツカーはやはりFR車でなくてはいけない」と思っていた。
FRとは、フロントエンジン・リアドライブの略で、要は後輪駆動車である。車のフロント部に載せたエンジンの動力を、プロペラシャフトを介して後輪に伝えている。中心部に重心を置き、後輪で駆動し前輪で舵を切るので、カーマニアはたいてい「素直なステアリング感覚が得られる」と言う。「FR車はスポーツカーの代名詞なんですよ」とは多田の弁である。
「ここはこだわりの世界なので、言葉でうまく説明できないんだけど、乗り味がいいんです。後輪駆動だとドリフトがしやすいし、走りの性能に加えて、味わいがあるんだね。リア(後輪)を滑らす感覚というのはとても面白いんです。