「絶対に売れない、儲からない」と言われながらもトヨタ自動車でスポーツカーを懸命に作り続けた男たちを描いたノンフィクション『どんがら』。エンジニアたちはどのように開発に取り組んでいたのか。彼らの栄光と苦悩に満ちた日々を一部抜粋してお届けする(全2回の1回目/後編を読む)
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会議が多ければ売れる車になるとは言えない
車の開発は、Zのチームを中心に数百人が加わって何年もかけ、数百億円から、スポーツカーに至っては(スープラがそうだったように)一1000億円も投資する大事業だ。工場の生産ラインやボディのプレス型を作り、時には新型エンジンを開発しなければならない。そのため、プロジェクトの節目で進行状況をチェックする会議や役員会が頻繁に開かれる。
コロナ禍以前のトヨタは、会議のたびに世界中から役員を集めていたから、その数も多く、主だったものを挙げても、複数回の商品企画会議に始まり、開発目標確認会議、製品企画会議(これも開発を決定する会議と生産準備開始を決める会議がある)、原価企画会議、アイデア選択会、デザイン審査、社長臨席の商品化決定会議、号試移行確認会議……と、恐ろしいほどの関門がある。
そして初めて生産が開始される。元商品企画部幹部が言う。
「こんな車を作れば月産何万台が売れて、これだけ会社が儲かる。投資に見合ったリターンが必ずある、ということを役員会で証明し、最後に社長の了承を得なければなりませんからね」
会議が多ければ売れる車になるかと言えば、そうとばかりは言えない。「船頭多くして船山に上る」の例え通りに、斬新なデザインは角をそがれ、どうしても万人受けする車に落ち着く傾向にある。だから、Zのヌシだった和田のように、
〈常に大勢集めての会議を控える。会議中に仕事は停まっていると思うべき〉(「チーフエンジニアの心掛け」その八)
と唱える役員もいた。和田のような人物がいると一時的に会議は減る。
だが「俺はその件、聞いてなかったぞ」という幹部が…
ところが、しばらくすると、幹部から「俺はその件、聞いてなかったぞ」とか、「一体どうやって進めているんだ」という声が起き、結局、名前を変えて同じような会議が復活するのである。
3月下旬、はるか彼方の重要会議を目指して、技術本館会議室に4人の技術者が集まっていた。
出席者はエンジン担当者たちが2人、車両企画部スポーツグループマネージャーなった多田、それに翌月から正式な部下となる今井。小さな集まりだが、今井にとっては初の会議である。
議題はただひとつ、どんなエンジンを使って、どんなスポーツカーを作るのかということだった。そのためにまずはエンジンの専門家を呼んで意見を聞こうとしていた。