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 母は娘が女学校を卒業したら結婚させようと相手も決めていた。それを知った橋田は、密かに東京の日本女子大を受験、母の猛反対を押し切って上京する。女子大を卒業したら、親に連れ戻されて結婚させられることがわかっていたので、もう一度、早稲田大学に入り直した。

「母が敷いたレールの上を走るのはいやです。どうか不合格にしないでください」

 早稲田の同級生だった斎藤武市(後に「渡り鳥」シリーズなどを監督)に教えられて受けた松竹の大船撮影所脚本養成所の試験に合格するが、城戸四郎撮影所長には母から手紙が届いていた。

 手紙は娘を不合格にしてほしいという内容だった。橋田は「母が敷いたレールの上を走るのはいやです。どうか不合格にしないでください」と城戸に何度も頭を下げたという。城戸のはからいで、実家に近い京都撮影所に配属されたが、橋田は東京に戻りたくて仕方がなかった。

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「こうなりたいなと思ってるんじゃなくて、親から逃げたい逃げたいといって、たどりついたのがシナリオライターだった」(同上)

 松竹最初の女性社員になった橋田だが、男だらけの撮影所ではパワハラを受け続けた。脚本家として一本立ちもさせてもらえず、入社10年で事務職への異動が決まったのを機に退社。勃興したばかりのテレビの世界へと飛び込んで必死にシナリオを書いているうちに、母と父が相次いで亡くなった。

転機は結婚。相手は極度のマザコンで…

『愛と死をみつめて』(64年・TBS)などのヒット作が生まれるようになった頃、大きな転機がやってくる。4歳年下のTBS社員、岩崎嘉一との結婚である。岩崎が大家族もののホームドラマの企画を立てたことが縁で知り合った。結婚は橋田が41歳のときのこと。間を取り持ったのは石井ふく子だった。