3日前、平昌オリンピックのノルディックスキー・ジャンプ女子ノーマルヒルで高梨沙羅が銅メダルを獲得した。さかのぼれば、1998(平成10)年の長野オリンピックでは、船木和喜(当時22歳)が大会5日目の2月11日に同じくスキージャンプのノーマルヒルで銀メダル、さらに4日後の15日にはラージヒルで金メダルを獲得した。いまから20年前のきょうのことだ。
この日、会場の白馬ジャンプ競技場には雪が降りしきるなか、3万4958人の観客が詰めかけた。船木は1回目は126メートルを飛んで4位だったが、続く2回目は、飛型審判の5人全員が満点の20点をつける完璧なジャンプで132.5メートルまで伸ばし、逆転に成功した(総合得点は272.3点)。このときの日本選手では原田雅彦(当時29歳)も、1回目の6位から大逆転を狙い、2回目には競技場のビデオ計測装置で測れる135メートルを越える大ジャンプを決めていた。そのため、最後の選手が飛び終えてからも、10分ほど確認作業が続き、結局、予備の計測員の報告などをもとに、原田の飛距離は136メートルと認定される。ただし、原田の総合得点は飛計点で減点されたため3位となり、船木の優勝が決まった(2位はフィンランドのソイニネン)。
「日本人初という考えが嫌い」
五輪での日本勢のラージヒル制覇は船木が初めてだった。だが、その心境を記者会見で問われた彼は、《僕が日本人初という考えが嫌いなのは、そういうことをいうから芽が出ないスポーツがいっぱいあるからです。日本、日本で、日本が、そんな殻みたいなものに入っていると、世界で勝てない》と率直に意見を述べた(『朝日新聞』1998年2月16日付)。
長野五輪ではこのあと2月17日、日本ジャンプ勢がラージヒル団体でも金メダルを獲得する。原田は前回、1994年のリレハンメル五輪の同競技でアンカーを務めながらジャンプに失敗し、優勝を目前で逃していたが、その雪辱を晴らした。このとき2回目のジャンプで個人戦の記録を越える137メートルを飛んだあと、声を震わせながら「ふなきぃ~」とアンカーの船木にエールを送った原田の姿は、いまでも多くの人に記憶されていることだろう。なお、原田は現在、雪印メグミルクスキー部の監督を務め、船木はその後、経営者としてアップルパイ販売で活躍する一方で、42歳になったいまも現役選手として飛び続けている。