《だから、たとえばドラマなんか「とりあえずこれをやって、終わったらやめよう」と思ってやるんです。ところが、私は広く浅く何でも適当にできるタイプだと思っていたのに、全然できなくて。それが悔しくて「もう一回やって、もしできたらやめよう」と思うんだけど、またできなくて。ずーっと悔しくて。それが原動力で続けていったという感じです》(『週刊文春』前掲号)
それでも歌手としては、フォーライフ・レコードの松田直というディレクターが彼女の意見も色々と取り入れてくれたおかげもあり、その魅力を発揮していく。『おもひでぽろぽろ』に出演した1991年にはシングル「PIECE OF MY WISH」をリリースし、ミリオンセラーとなった。しかし、同曲は大ヒットしたために、かえって重しとなって彼女にのしかかることになる。音楽に関して、もっと新しいことをやりたいという気持ちもしだいに強くなっていったが、周囲のスタッフの多くが「いまは今井美樹という色を大事にすべき」と慎重で、なかなか思うようにいかなかった。
布袋寅泰のアルバムから受けた衝撃
布袋寅泰のアルバムを聴いて、その音楽性の幅広さに衝撃を受けたのはこの頃だ。それからしばらくして、布袋に曲を書いてほしいとディレクターに申し出た。ところが、これが今井いわく「レコード会社が騒然という感じ」になるほど波紋を呼ぶことになる。会社側は、彼女が布袋の音楽に感化されて、これまでとまったく違う方向に行こうとしているのではないかと心配したらしい。そこで彼女は、「そうではなく、私がもっと私らしくなるために、自信を持って『これが私です』と言える音楽をやりたいんだ」と説明したという(『週刊朝日』2009年4月3日号)。
説得の末、ついにレコード会社も認めてくれ、1992年のアルバム『flow into space』で初めて布袋は今井に楽曲を提供、のちにはアルバムのプロデュースも手がけるようになる。
その後、32歳になった今井は、さらなる危機に直面する。体が突然不調を来したのだ。病院で何度も診てもらっても原因がわからず、精神的にもパニック状態に陥った。このためレコード会社は1年間の休養を認めてくれたが、数ヵ月もすると音楽への思いが再び湧き上がってくる。同時に、「20代の代表曲が『PIECE OF MY WISH』だとしたら、30代を代表するような曲を歌いたい」という気持ちも抱くようになっていた。