とはいえ、20代後半の今井は、前に進もうとするがゆえにもがいていた。その点は、映画のなかのタエ子が表面上は平穏な日々を送っているものの、自分の行く先がいまひとつ見えず、気持ちを整理するため旅に出たのと共通する。
歌手になりたいわけではなかった
そもそも今井は、歌手になりたくてなったわけではない。父がジャズ好きで、祖父から継いだ電器店をオーディオ専門店にするほどだったため、家には常に音楽が流れていた。おかげで自然と音楽好きになり、自分でも松任谷由実の曲をピアノで弾いたり歌ったりはしていたものの、それを人前で披露しようと思ったことはなかったという。
子供の頃から憧れていたのはキャビンアテンダントで、地元・宮崎の高校を卒業すると、上京して養成学校に入る。しかし、自分の考えていた仕事とは違うと気づき、断念する。その頃、たまたま知人のカメラマンに頼まれて、アルバイトでモデルの仕事を始めた。
やがてそのカメラマンの勧めでプロダクションに入ると、「あなたは写真より動いたほうがいい」と言われ、テレビでも仕事を始めた。1984年には女子プロレスの世界を舞台にした山田太一脚本のドラマ『輝きたいの』で主演に抜擢され、以後、CMや映画にも出演するようになる。
この時代、若手女優は歌もうたうのが当たり前というような雰囲気があり、今井も自ら希望したわけではないのに、気づけば話が進められ、1986年5月にシングル「黄昏のモノローグ」でデビューする。同年12月には1stアルバム『femme』もリリースした。
ミリオンセラーを生み出したが…
こうしてさまざまな分野で活動するようになったが、どの仕事も自分に合っていると思うことはなかったらしい。後年語ったところでは、《表に立って人の前で何かやること自体が苦手な人だった》自分が、それでも続けてこられたのは、まわりに迷惑をかけちゃいけないという責任感だけはあったからだという(『週刊文春』2007年11月1日号)。