作家・数学者の藤原正彦氏と作家の林真理子氏の対談「運命の一冊に出会うために」(「文藝春秋」2023年5月号)を一部転載します。

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大きな世界に飛び込みたいと願うようになった

 林 今日のテーマは「人生を決めた本」——と言ってもお引き受けするまではよかったんですけれど、昨日からちょっと気が重くなってきまして。

 藤原 どうしてですか。

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 林 先生と私じゃ、読んできた本のレベルも知性も違うだろうし……。

 藤原 いやいやいや、とんでもないですよ(笑)。小説を書くには、それこそ膨大な資料を読み込まなければいけないじゃないですか。今日は、そんな林さんのデビュー前の読書まで聞いてみたいと思って来ました。こういう時、真っ先に思い浮かぶ1冊は何ですか?

 林 何と言っても『風と共に去りぬ』(M・ミッチェル、新潮文庫ほか)ですね。中学2年生の時に読んで、あまりにもショックを受けてしまいました。山梨県の小さな町に暮らす女の子には、物語と現実の区別がつかず、波乱に満ちたスカーレットの人生に「こんなにも劇的な人生を送る人もいるのに、私は一生ここでつまらない毎日を過ごすんだ」と思って、死にたくなったくらい。間違いなくあの本によって、どこかもっと大きな世界に飛び出したいと切実に願うようになりました。先生はいかがですか?

 藤原 私たち一家は満州からの引揚げ者でしたから、家には1冊も本がありませんでした。お金もない、本もない、何もない。そんななか、4歳か5歳の時に父が「赤い鳥」という厚い本を買ってきてくれたのです。戦後の藤原家にやってきた初めての本で、他に読むものもないから何度も何度も読みました。

藤原正彦氏 ©文藝春秋

 林 後に名作となる童話や童謡、詩の載った雑誌ですよね。「赤い鳥」は私にとっても思い出深い本でして。昭和2年に母が投稿した作文が一度、推奨という一番いい賞をもらったことがあるんです。

 藤原 えーっ。すごい。

 林 「猿まはし」という題で、山梨日日新聞にも載りました。鈴木三重吉先生に「素晴らしい才能だから伸ばしてあげてください」なんて言っていただいて、祖母が喜んで、いずれ作家にしたいと言っていた。母は母でその気になって目指しちゃったんですよね。

 藤原 でも、それは林さんにも影響を与えませんでした?

 林 そうですね。母の想いというのはずっと私の中にあったかもしれません。その後、作家の夢破れ日下部駅(現・山梨市駅)の駅前で小さな本屋を開くのですが、おかげでいろいろな本が読めました。本に囲まれた日々は作家の原体験だと思います。

「クオレ」の美少年デロッシになれなくて

 藤原 私も小学4年生くらいから少年少女のための世界文学全集というようなシリーズを読むようになりました。全巻を揃えていた友人がいたので、毎週日曜日に1冊ずつ借りに行った。その中に「クオレ」というのがありまして。

 林 ありましたね。

 藤原 あれにめちゃくちゃ感激しました。人生を変えた本を聞かれればあの1冊かな。優等生のデロッシと、ガルローネというがっしりした体格のガキ大将がいて。デロッシはいつも金髪を風になびかせて遠くを見つめているような眉目秀麗成績抜群の男の子で、みんなの尊敬を集めていました。私も彼みたいになりたくて、校庭で眉間に皺を寄せて眩しそうに遠くを見ていたけれども、誰も振り向いてくれなかった。

 林 懐かしい少年時代ですね(笑)。

林真理子氏 ©文藝春秋

 藤原 それならガルローネになろうと。彼は貧しい子や弱い子がいじめられていると果敢に助けるような子でした。私が小学校5年生のとき、ある昼休みにドッジボールをしていると、パスを回さなかったとかで、ある子が同級生を殴り倒したのです。殴られたのは、家族5人が六畳で寝ている家に住む子で、穴のあいた半ズボンを穿き、栄養失調からか、いつも坊主頭におできができていました。殴ったのは有力市議会議員の息子でガキ大将でした。見ていた私は、すぐさま突進してそいつを引きずり倒し、雨上がりの校庭に顔を押しつけました。「今度弱い者いじめをしたら、これくらいじゃあ済まないからな」って。

 家に帰り顛末を話すと、父がものすごく褒めてくれた。「よくぞやった。弱い者貧しい者を助けたんだな」と。

 林 新田次郎さんは素晴らしいお父様ですね。

 藤原 隣にいた母は、「なに調子に乗ってるの。まったく、この親にしてこの子ありね。そんなことをしていると暴力少年として中学受験のときにろくな内申書を書いてもらえませんよ」と言ってましたけど。

 林 お母様には敵いません(笑)。