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《母のお葬式で「お骨がない」と大騒ぎ》池波正太郎生誕100年 初めて語られた身内しか知らない日常

2023/05/13
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木造の小さな家

 そんなわけで長らく池波家とは疎遠でしたが、わだかまりが解けたのは、私が成人になったとき、叔父から万年筆とお祝いをいただいたことがきっかけです。

 叔父は、長谷川先生のすすめで小説を書き始め、昭和30年には都の職員を辞めて執筆に専念。昭和35年には時代小説『錯乱』で直木賞を受賞しました。いまと違って大々的に報じられたわけでもないから、高校生だった私は、よく分かっていませんでしたが、母と祖母が授賞式へ行ったことは覚えています。私が20になった昭和40年ごろは仕事も順調で、お祝いを贈る余裕があったのでしょう。

直木賞を受賞。芥川賞の北杜夫氏(左)と歓談。池波氏の奥にいる女性はご母堂 ©文藝春秋

 お礼を言うため、祖母、母と3人で、荏原(えばら)の池波家に行きました。荏原は東京の南西にあって、叔父が生まれた浅草から遠いけど、近くの戸越と武蔵小山には大きな商店街があってにぎやかなのです。下町の雰囲気が好きだった叔父は、亡くなるまでこの地を離れませんでした。

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 後に鉄筋3階建てに建て直しましたが、私が訪ねたときは、都の職員時代に住宅金融公庫から借りたお金で買った、30坪ほどの土地に、私の実家の援助で建てた木造の小さな2階建ての家に住んでいました。

池波氏の姪、石塚綾子氏 ©文藝春秋

 怖い印象しかなかった叔父と、まともに言葉を交わしたのは、このときが初めてでした。「綾子、いつも何をやっているんだ」というので、「友だちと会ったりしてます」なんて答えたら、「じゃあおれんちに1週間に1回でいいから来い」と言われて通うことになり、週1回のはずがだんだんと増えていきました。