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《母のお葬式で「お骨がない」と大騒ぎ》池波正太郎生誕100年 初めて語られた身内しか知らない日常

2023/05/13
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母親との不思議な関係

 初めて叔父の家に行った日のことは忘れられません。朝の10時に着いたら、ちょうど叔父の母のお鈴さんが、1階の雨戸をガラガラと開けていたところでした。すると叔父が、「てめえ、誰のおかげでメシ食ってんだ。おれを殺す気か!」と、書斎のある2階からドスのきいた声で怒鳴っているのです。

 文藝春秋でやはり叔父の担当をしていた菊池夏樹さん、菊池寛のお孫さんですね、あの方も、「あの声は普通の人が出せるもんじゃない」と言うほどの迫力があったので、私もビックリしちゃって。

 叔父は深夜に仕事をして、空が明るくなるころに寝るのですが、原稿が思うように進まず、なかなか寝つけないことが、ときどきあった。そんな日に雨戸の音で起こされて、怒りを爆発させたのですね。

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 お鈴さんも負けていませんよ。2度、結婚して2度とも離婚し、叔父と、叔父とは父親の違う弟、お鈴さんの母、祖母の4人の生活を、一人で支えていた強い人でしたから。私が会った頃は以前よりおとなしくなったようですが、それでも始終、叔父とは口論していて、ときには2階からゴミ箱が飛んでくる。

池波氏の外出を夫人、母堂、愛猫でお見送り ©文藝春秋

 同居はしているものの、1階に住むお鈴さんが、2階で寝起きする叔父と顔を合わせるのは、年に1回の旅行を除けば、正月くらい。「食べさせてもらっているから、挨拶ぐらいしなきゃ」と。

 お鈴さんは叔母とも始終、やりあっていましたね。どちらも気が強いから。叔父は〈自分が嫁姑の「共同の敵」という悪役になることで、2人を接近させた〉なんて格好のいいことを書いているようですが、2人の間に入っていたのは私(笑)。

 叔父はお母さんに、「おれを捨てて、男のところへ行って、血のつながらない弟を連れてきやがって」とか、ひどいことを言っていましたが、そのわりに、何度もエッセイの題材にしています。お鈴さんは「ちゃんとモデル料をいただかないと割に合わない」なんて、なじみの編集者に言っていましたけど。

 昭和48年、この文藝春秋に書いた「母」という長いエッセイに、こんな一節があります。

〈私が何度も直木賞候補にあげられ、そのたびに落ちていたころ、一度だけ、家人に、「あんな奴が書いたの、どこがいいのだ」

 と、吐き捨てるようにいったことがあるそうだ。

 あんな奴、とは、そのとき、直木賞を受賞した作品のことである。(中略)その母の言葉に、私は、はじめて、母の私に対する愛情の表現を看たのである〉

 叔父は5回も落選して、ようやく直木賞を取りました。その授賞式で、芥川賞の北杜夫さんと談笑する叔父を、嬉しそうにみている、お鈴さんの写真が残っています。

 私はお鈴さんの話し相手をよくしましたが、話題も豊富で面白いし、勉強になることも多かった。さすが、叔父とは血がつながっているなと思いましたよ。

 お鈴さんは叔父が63歳のとき、脳出血で意識不明になり、近くの病院へ担ぎ込まれました。そのとき叔父は「おれ、死んでから行く」と言ったのです。きっと死に目にあいたくなかったのでしょう。

 そのまま亡くなってしまったのですが、お葬式のとき、まだ参列者がいるのに、叔父は祭壇にあるお鈴さんのお骨を脇に抱えて、うちの旦那の運転で自宅まで帰っちゃった。残されたこっちは「お骨がない」って大騒ぎです。いま思うと一人で弔いたかったのかもしれません。

「生誕100年 叔父・池波正太郎の美食と癇癪」全文は、「文藝春秋」2023年5月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されています。

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生誕100年 叔父・池波正太郎の美食と癇癪
《母のお葬式で「お骨がない」と大騒ぎ》池波正太郎生誕100年 初めて語られた身内しか知らない日常

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