ノーベル賞受賞の瞬間
尾崎 1994年10月、大江さんがノーベル賞を受賞したとき、私は読売新聞文化部記者として、大江さんの成城のご自宅前で結果を待っていました。まだ携帯電話が普及していない時代、ハイヤーの車載電話を受けた共同通信の記者の絶叫で第一報を知りました。そのあとしばらくして大江さんが門の前に出てこられて、記者会見が始まったのです。私たち記者の方がむしろ動転していて、大江さんは終始厳かで、落ち着いた様子でした。
今振り返れば、大江さんがノーベル賞を受賞したのは59歳の時です。最近は、70代、80代で受賞することが多いので、それに比べるとすごく若い。
平野 昔はトーマス・マンのように50代で受賞してその後もずっと書き続けた作家がいましたが、最近は珍しいですね。
尾崎 ノーベル賞受賞後、長編だけでも8作書かれたわけですからね。
平野 川端康成から大江さんの間に、ノーベル賞候補として名前のあがった日本人作家が何人かいました。
たとえば、谷崎潤一郎、三島由紀夫、安部公房……。僕は三島びいきで、こんど『三島由紀夫論』という本まで出すくらいなんですが、それでもやっぱり、改めてその中から誰か1人と考えた時、結局、大江さんが一番ふさわしかったと思います。実際、ニューヨーク・タイムズをはじめとする海外メディアの追悼も、この半世紀ほどの受賞者の中でも非常に重要な作家だったと感じさせる扱いでした。逆に、日本のメディアの伝え方に、物足りなさを感じました。
尾崎 戦後民主主義者として社会的発言を続けた——といった見方だけでは、複雑な全体像は見えてきませんね。同時代の社会的背景を抜きにして読まれるようになる今後、作品から新たに何が見えてくるか。それを楽しみにしています。
大江文学にうちのめされる
平野 僕が大江さんの作品にはじめて触れたのは、高校生の時でした。高校の先生が、「次に日本人でノーベル文学賞をとるのは、絶対に大江だ」と力説するのを聞き、ちょうどその頃出たばっかりだった『燃えあがる緑の木』の第一部を手にとりました。残念ながらその時は途中で挫折してしまったのですが(笑)、大学に入ったあと、初期短編集『死者の奢り・飼育』から、順番に大江さんの作品を読んでいき、強い衝撃を受けました。文体の力強さといい、独特の緊迫感といい、それまで読んできた日本の作家とはまったく違いました。
10代で三島由紀夫を読んだ時は、「自分もこういう文章を書けるようになりたい」と強い憧れを抱いたのですが、大江さんに対しては、「自分にはこんな小説はとても書けない。作家というのはこういう人がなるべきなんじゃないか」と、すっかり自信喪失してしまいました。
尾崎 平野さんをはじめとして、2000年前後にデビューした、いわゆるロスジェネ(就職氷河期)世代の作家たちは、大江作品と相性が良かったんじゃないかと思うんです。中村文則さんなども、大江さんからの強い影響を公言されていますね。
大江さんは、まだ戦後の混乱の残る時代に青春を送り、経済的な格差を目の当たりにしてきたはずです。いっぽうロスジェネ世代も、戦後日本の豊かさが失われていったツケを理不尽に被りました。40年ほど年齢が離れていながら、大江さんの作品が強く響いたのは、辿った道筋に共通点があるからのような気がします。女性に支持が広がっているのも、弱者からの視点によるからだと思います。
平野 たしかに、『性的人間』や『われらの時代』のような初期作品には、戦後の虚無的な世界の中で、性的な興奮にしか実在の根拠を見いだせないような都市部の青年たちが出てきて、それはよくわかったんですね。僕自身、北九州の工業地帯で育ちましたので、中期以降の四国の森というトポスが強調される作品群より、自然な共感がありました。