相続人全員の同意書は、息子である私と弟の2人きりだから簡単だ。しかし、亡くなった父の銀行口座があるかどうか調べてもらうにあたり、なぜ過去のすべての居住地の戸籍謄本が必要なのだろう。銀行員は平然とこう言い放った。
「お父さんがどこかに隠し子を作っているかもしれないので、戸籍謄本が揃っていないと、銀行は相続人全員の同意があることを確認できないんです」
佐賀出身の父は、80年間の人生を通じて全国を飛び回っていた。「戸籍謄本を全部集めてきてください」と安易に言うが、毎日仕事をしている大人が、佐賀だの神戸だのにわざわざ出かけている暇なんてあるわけがない。それに旅費がいくらかかると思っているのだろう。仕方がないので、父が過去に暮らしていた自治体に電話をかけた。すると、「郵便小為替と返信用封筒を同封して、役場に申請書を出してください」と言う。腹立たしいことに、この申請書が全国統一フォーマットではない。だから自治体によって、いちいち別の文書を作成しなければならないのだ。
しかも郵便のやり取りだから、1週間以内に一つの作業が終了しない。こっちは次の作業がどんどん控えて焦っているのだが、相手は役人だからスピーディに動いてくれないのだ。
「文京区役所は空襲で焼けたので、戸籍はありません」
相続の申告期限は、死去から10カ月以内と決まっている。作業を少しでも早く進めるため、直接足を運べる役所には極力出かけることにした。最後の最後で壁にぶつかったのは、東京都の文京区役所だ。
父はかつて文京区で暮らしていたことがある。なのに「戸籍謄本をください」と言うと「お父さんの戸籍謄本はありませんよ」と言うのだ。
「でも、確かに文京区に戸籍があったはずですよ」
「それはそうなんですけど、文京区役所は空襲で焼けましたので、そのとき焼けた戸籍の書類は残っていません」
戦争で焼けてしまったのだから、書類を出せと言っても先方もどうしようもない。文京区役所の戸籍謄本だけ抜け落ちた状態で「全部揃いました」と言って銀行にもっていったところ、銀行員が何と言ったか。
「文京区役所の書類だけ欠けてるじゃないですか」
「空襲で文京区役所が焼けたせいで、書類が残っていないんです」
「ならば、文京区役所が空襲で戸籍謄本を焼失したという証明書を取ってきてください」
どこの役場に「戸籍謄本焼失証明」なんていう書式があるというのだろうか。
文京区役所の総合相談窓口を訪れた。当然、そんな手続きをしてくれる担当部署はない。
結局、何度も交渉を重ねた挙げ句に、ようやく似たような内容の文書を作ってくれることになった。