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「現金3000万を持ってきてくれないか」

 朝日新聞阪神支局にドーンという轟音がとどろいたのは、1987年5月3日、憲法記念日の夜だった。

 捜査報告書によると当時、支局にいた記者3人は食事中だった。突然、現れた黒っぽい目出し帽をかぶった男は腰だめに散弾銃を構え、1発を発射。心臓まであと2ミリというところで鉛玉が止まり、奇跡的に命を取りとめた犬飼兵衛(いぬかいひょうえ)記者は、「男は小尻(知博)記者の背後に立ち、無言で撃ってきた」と供述している。

 驚いた小尻記者が犯人の方へ振り向いた瞬間、1メートルの至近距離で撃たれ、反転してうずくまった。その場で呆然と立ち尽くしていた高山顕治記者は犯人の男と一瞬、目が合った。

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「撃たれる」と思ったが、犯人は無言のまま、入口から歩いて出て行ったという。400個の鉛粒が腹部で破裂した小尻記者は5時間後に失血死した。「無差別に撃ったように思えた」と犬飼記者は供述している。

兵庫県警が再現した朝日新聞阪神支局襲撃事件犯人像 Ⓒ共同通信社

《すべての朝日社員に死刑を言いわたす》

 犯行声明文がメディアに送りつけられ、日本中が蜂の巣をつついたようなパニックに陥った。

 当時のことを盛田は克明に覚えているという。

「阪神事件の直後と思う。私の事務所へ野村さんが慌てた様子で電話をかけてきて、『急いで3000万円ほど現金で持ってきてくれないか。大至急だ。頼む、えらいことになった。もうあとには引けない』と。狼狽した声のトーンを聞いて、阪神事件に野村さんは関わっているな、とピンときました。いずれ、朝日を叩かないとダメだと当時から口癖のように言ってはったから……」

 普段、野村は盛田に対して声を荒らげたり、乱暴な言葉を使ったりすることは絶対になかったが、その時は珍しく冷静さを失っていた。当時、盛田は毎日のように野村と会っていたが、「彼は相当混乱し、神経が異常にピリピリし、気持ちが高ぶっていた」という。

記者2人が殺傷された朝日新聞阪神支局編集室(1987年5月、兵庫県西宮市) Ⓒ共同通信社

自衛隊出身の銃マニア

 盛田は急いで会社の金庫から手持ちの現金を掻き集めた。その日の夕方、とりあえず、「あるだけ持っていく」と野村に電話を入れ、約3000万円の現金を新聞紙に包み、紙袋に詰めて、タクシーに飛び乗り、当時、浜松町にあった野村事務所へ届けた。

 盛田が野村事務所の中に入ると、応接室のソファに野村と向かい合って短髪の男が座っていた。座っていたので背丈は正確にはわからなかったが、中肉中背で30~40歳に見えた。

 盛田が現金が入った紙袋を野村に手渡すと、野村は別室に待機していたその男に袋ごと、無造作に渡した。

「その時もドアの隙間から覗いたが、大人しそうな丸顔の男で雰囲気的に右翼には見えなかった。その場では野村さんに何も聞かず、すぐに事務所を出て帰りました」

 盛田は後日、野村にその男の素性について、聞く機会があったという。野村はこう語った。

「男は自衛隊出身で銃マニアだ。北陸地方に住み、既存の右翼団体には入っていない。俺の影響を受けてやってしまったようだ。捕まらないよう逃走資金を出してやらないといかん」

 盛田は事務所で現金を渡した男こそが阪神事件の実行犯、あるいは赤報隊のメンバーではないかと、今でも思っている。

負傷した犬飼兵衛記者(左)と亡くなった小尻知博記者 Ⓒ共同通信社

 その一方で、野村は絶対に記者殺害を命じるタイプではなかったと盛田は主張する。

「何か現場で手違いがあり、実行役が記者を撃ってしまい、野村さんはあれだけ狼狽していたのではないだろうかと思っています」

「文藝春秋」取材班による「朝日襲撃『赤報隊』の正体」全文は、「文藝春秋」2023年6月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。

文藝春秋

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朝日襲撃「赤報隊」の正体