1ページ目から読む
2/3ページ目

ヴェルサーチを着こなす右翼

 鈴木は、田原総一朗がMCを務める『朝まで生テレビ』にも出演するなど、新右翼を代表する論客としてメディアを賑わした。早稲田大学政経学部卒で清貧なインテリという風貌の鈴木は、書物に埋もれるように中野区の木造アパートで晩年までひとりで暮らし、原稿を書き続けた。パーキンソン病などを患い、入退院を繰り返すようになり、79歳で世を去った。

 新聞、テレビの訃報では一切、触れられなかったが、鈴木は生前、赤報隊に会ったと自著などでも公言してはばからず、一一六号事件で警察当局に徹底的にマークされた人物でもあるのだ。

〈野村秋介さんは(中略)死の直前、「実は俺も赤報隊に一度だけ会っている」と言っていた。僕の会った人間と同じかもしれない〉〈野村さんや僕の前に姿を現した「赤報隊」はそんな老人ではなかった。若かった〉(鈴木邦男『夕刻のコペルニクス』扶桑社文庫より)

ADVERTISEMENT

「野村さん」とは、新右翼のドンとして君臨し、58歳で突如、朝日新聞の東京本社で自決した野村秋介である。野村は「肉体言語」すなわちテロリズムをもいとわない新しい民族運動を打ち出し、河野一郎邸焼き討ち事件、経団連襲撃事件など、政財界の大物に次々とテロを仕掛けてきた。

 取材班は、鈴木の生前、しばしばファミリーレストランなどで会い、その真意を問いただしたが、にこやかにはぐらかされるのが常だった。時には、こう逆取材されたこともある。

「赤報隊が出した7通の犯行声明文だけどね、どれが一番、名文だと思った?」

1987年5月、共同通信社に届いた赤報隊からの犯行声明文 Ⓒ共同通信社

 鈴木邦男の死後、取材班は、長い間、消息不明になっていた野村秋介の金庫番と東京都内で待ち合わせた。薄茶色のサングラス、皺のないダークスーツ姿で現れたその人物は東京・六本木にあった不動産会社「サム・エンタープライズ」の元社長・盛田正敏(79)だ。現在の名刺にはこんな肩書が記されている。「大悲会後見人 野村秋介思想研究会最高顧問」――。大悲会とは、野村が立ち上げた右翼団体だ。

 盛田は、東京、神戸を拠点に不動産の地上げなどの事業を展開し、政官財から暴力団山口組などの裏社会にまで、幅広い人脈を持った実業家である。盛田の人脈は大物右翼の野村との関係で培われたものだった。

 盛田は右翼活動費だけでなく、野村が趣味でプロデュースした映画事業費から、92年の参院選に出馬した際の選挙費用、野村の親族が経営する会社への出資、自宅、墓の建設費などあらゆる面倒を見て、資金提供は50億円にも上ったという。

 盛田はこう豪語する。

「ヴェルサーチを着こなす右翼という野村先生のブランドイメージを作り上げたのは私と自負している」

 野村の死後、サム社は02年7月に700億円の負債を抱え、倒産し、盛田は姿を消した。だが実は、盛田は米国へ渡り、ニューヨーク・マンハッタンのマジソンスクエアーガーデンの傍にある超高層ビルにオフィスを構え、インターネット関連の企業などを経営していた。

 約10年前にひそかに帰国した盛田に対して、取材班は粘り強く取材を重ねてきたが、ついに重大な証言が飛び出した。

「僕はね、野村さんが一一六号事件に関与していたと朝日新聞阪神支局の事件直後からずっと思っていたんです」

 盛田が語る野村と赤報隊との“接点”は、驚くべきものだった。