高校時代、ともに校長室を占拠した前衆議院議員の塩崎恭久氏とフリーライターの馬場憲治氏による「 革命同志・坂本龍一を偲ぶ」を一部転載します(「文藝春秋」2023年6月号)。

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「とにかく坂本君は早熟だった」

 塩崎 この3月末、私たちと50年以上の友人である坂本龍一君が亡くなりました。2年前まで衆議院議員を務めていた私と、ライターとして『アクション・カメラ術』という大ベストセラーを出した後はTVリポーターとしても活躍した馬場君が、どうして坂本君と関係があるんだと思う人もいるでしょうね。

 馬場 僕たち3人は1970年に都立新宿高校を卒業した同級生。塩崎さんは1年間アメリカへ留学していたから年上なので、僕は当時から「塩崎さん」と呼んでいました。

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 塩崎 高2のとき日本へ戻ってきたけど、坂本君は俺のことを「塩崎」と呼んでいたな。ちょっと遠慮していたけど、呼び捨てだった。

左から塩崎氏、坂本氏、馬場氏(塩崎事務所提供)

 馬場 塩崎さんと坂本君は中学の先輩と後輩だとか。

 塩崎 そう。同じ世田谷区で、後で小学校も同じだったことを知ったけど、会ったのは中学のとき。僕が部長だったブラスバンド部に、1年下の坂本君が入ってきた。肩幅が広くて体格がいいし、唇が分厚かったから、先生と相談して、バスという大きな金管楽器をお願いした。なにか納得いかない顔をしていたのを覚えている。

 馬場 不満があったみたいよ。ドミソしか音を出さないし。

 塩崎 そうだろうな。だから練習に出てこないんだよ。「お前、ちゃんと練習しなきゃ、うまくならないぞ」と言ってもニヤニヤするだけ。でも本番ではちゃんとできるから、なんか生意気だなと思ったよ。小さい頃からピアノや作曲の先生について、音楽の英才教育を受けていたなんて、こっちは知らなかったから。

 馬場 僕が坂本君と会ったのは高校2年のとき。カバンに「ベトナム戦争反対」と書いているのを見た坂本君が、学生運動のビラを持って話しかけてきた。それから会うたびに、めんどくさい話ばかりしてくるんだ。「ヘーゲルは読んだか。まずは弁証法から勉強しろよ」「カントを読んだか」とか、吉本隆明や丸山眞男などについて議論していた。

 塩崎 1年生の頃は坂本君のことを知らなかったの?

 馬場 噂は聞いていたよ。「音楽教師が舌を巻くくらい、ピアノがうまいヤツがいる。芸大を目指しているらしいぜ」って。あと、新宿高校では1年生の夏に千葉・館山で臨海合宿をするけど、その夜の演芸会みたいなもので、坂本君がすごくつまんねえ前衛劇をやった、ということも噂になっていた。

 塩崎 ははは(笑)。とにかく坂本君は早熟だったね。68年の5月にパリで大学生が暴動を起こした5月革命があったけど、坂本君はそれに反応していたな。国内だけじゃなく、世界の新しい動きに当時から非常に敏感だった。

 馬場 いちばん驚いたのが、3年の時だけど、「これ、読めよ」と持ってきたのがル・クレジオの『物質的恍惚』だったこと。だいぶ後の2008年にノーベル賞をとったフランスの作家だけど、坂本君はその頃から読んでいたんだ。家庭環境がすごいから、知っていたんだろうね。

 塩崎 そうだね。お父さんは三島由紀夫の『仮面の告白』などを担当した、著名な編集者の坂本一亀さんだから。お父さんを通じて坂本君は我われが知らない作家の世界にも通じていた。お母さんは帽子デザイナーで、これまた自由奔放。それでいながら結構いいお家柄で、母方のお祖父さんは東亜国内航空の会長だったはず。その息子さんはドイツ近現代史の研究者。家に何度も行ったけど、広い敷地で、坂本君は母屋の後ろにある家に住んでいた。

 馬場 僕も坂本君の家には何度も行ったけど、大学時代に出入り禁止になった。理由は後で話すよ(笑)。