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これでは極刑もやむを得ない…「死刑廃止」を訴え続けた教誨師が唯一さじを投げた死刑囚の言動

source : 提携メディア

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「いたって不遜なる性質にて、気短く、疑い深く、とにかく物事に自分勝手な曲解をする」、何でもないことに当たり散らし、「一癖ありそう」な人物で、「人の為すべき道に背いて邪悪なことを為し」「自分の情婦の父を殺してその財産を奪うようなことは、到底普通人の為し得ることではない」と断じている。

田中が死刑囚を酷評している例はほとんどないが、そんな数少ない一人だった。刑の執行日に典獄がいつものように「何か遺言がないか」と訊くと、「何もない」とぶっきらぼうに返し、「家族はないのか」と問うても「なし」と答えるのみだった。田中とは違う教誨師が執行直前に最後の教誨をほどこそうとしたところ、「宗教の話は要らん。田中教誨師の教えを聞いて十分だ」と拒絶するのであった。

執行直前の最後の教誨を「要らん」という死刑囚は珍しく、「死を恐れる様子もなかったが、とにかく風変わりな者」と田中はもてあましたようだった。死刑の是非については一言もないが、さりとて死刑当然ということばもない。

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共犯者の女性は無期刑だったが、1910(明治43)年に仮出獄したとある。

脱獄を企てた死刑囚へは厳しかった

この男以上に田中が手こずったのは、1906(明治39)年9月に東京監獄の刑場で処刑された29歳の男である。前年9月1日の午後、男は出身地に近い埼玉県内でとある住宅に盗みのために侵入し、蚊帳のなかで午睡していたその家の主人を起こし、持っていた短刀を突きつけ「金を出せ、騒ぐと斬るぞ」と脅しながら斬りつけたが、主人は果敢に抵抗した。激高した男は主人の頭部など十数カ所を斬りつけて、殺害してしまった。強盗殺人である。大審院で死刑が確定したのは1906年2月22日で、刑の執行は7カ月後である。

当時は死刑が確定すると、執行まではあまり時日が置かれなかった。

手記には教誨の内容は記されていないが、「備考」のところで田中は容赦なく突き放す。

「在監中いく度か遁走を企てて止まず。ある時は、看守の帯剣を奪わんとすることもありて、幾分執行を自ら招きたる観あり」

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