戦後最大のスターと呼ばれた裕次郎の人気は凄まじく、傾きかけていた日活の経営は右肩上がりに回復した。各社で第二の裕次郎の発掘が始まると、看板スターの扱いが日本映画の構造そのものを変えていった。
「裕次郎が来てから給料の遅配が無くなったって、撮影所の連中も喜んでたよ。日活はそれまでの映画とは違う現代劇の撮り方を打ち出して、最先端を行っていた。その過渡期に日活に入ることができた俺は、ある意味では運が良かったのかもしれない。裕次郎のおかげでうまいこと波に乗ることができたようなものさ」
昭和31年に公開された川島雄三監督の『飢える魂』で銀幕にデビューした小林は、その後、『錆びたナイフ』で裕次郎と共演し『絶唱』や『完全な遊戯』など数々の作品に主演した。
デビューから3年経っても撮影所では新人扱いされていた小林に大きな転機が訪れたのは昭和34(1959)年。「渡り鳥」シリーズの原点となる『南国土佐を後にして』が会社の予想を大幅に上回るヒットを記録し、日活は裕次郎との二枚看板で売り出した。
「お客さんが入りすぎて封切られた日に地方の映画館の館主から悲鳴が上がったそうだよ。フィルムが足りなくて4、5館の小屋を一日に何度もローテーションして回したっていうんだ。イタリア映画の『ニュー・シネマ・パラダイス』みたいなことを実際にやっていたんだね。
昭和33年には映画館の入場者数が11億人を突破したっていうから、いまとは比較にならない規模だった。看板争いが激しくなるほどお客さんも盛り上がって、盆暮れ正月に公開される映画をみんなが楽しみに待っていた。当時は映画が世界の中心にあるような錯覚すら覚えたよ。大の大人までスマホの画面ばかり見ている昨今では、あの頃の熱狂は絵空事にしか思えないだろうね」
B-29がキンキラ輝いて
昭和銀幕の黄金期を駆け抜け、歌手としても輝かしい功績を残す小林。いまも現役でステージに立ち続ける“最後の大物スター”の原点は、長閑な田園風景にあった。
「生まれは昭和13年、東京・世田谷区。今と違って畑ばっかりの田舎で、住民もお百姓さんが多かったね。ガキの頃はよく等々力渓谷に自生する蔦を引きちぎって、蔓にぶら下がって『ターザン』の真似事をしたもんだ。
戦時中もさほど空襲の被害はなかったけど、羽田のほうからB-29がワンワン言いながら飛んで来たことは覚えてる。防空壕に避難しろって言われても、小学生になるかどうかの子供だった俺には恐怖心より、怖いもの見たさの方が優っていた。夜空に探照灯がパーッと赤銀色に光る光景を眺めるのが好きだった。それが子どもの頃の思い出だね。
一番印象に残ってるのは空襲警報が鳴って、逃げる大人と逆走して家の屋根によじ上った時のこと。B-29が品川あたりにバカスカ爆弾を落っことしながらこちらへ飛んで来て、厚木の方も絨毯爆撃ですっかりやられて、川の向こうでドカドカ火が上がる。だけどこっちはむしろ涼しい気持ちで、『すげえもんだ、きれいだな』って圧倒されてね。
真っ昼間にB-29が来て、太陽がキンキラ輝いているところに地上から高射砲でポンポコ応戦するんだけど、二つ三つ上がっちゃ線香花火のように消えていく。あれだけの大国を向こうに回したら、日本みたいなちっぽけな国に勝ち目はないと思ったよ。子供心には、すげえなんてバカみたいに喜んでたんだな」
軍属の特別報道官だった小林の父は南方に出征していたが、終戦直前にマラリアに罹患して帰国した。痩せ細った姿で帰ってきた父を見た小林少年は恐怖に慄いたという。
「階級は少尉か何かで、戦地で記録映画や報道写真を撮っていたんだ。帰ってくるというので、おふくろと一緒に駅まで迎えに行くと、ガイコツが皮かぶってるみたいでね。目玉ばっかりギョロギョロして、その時ばかりは、おっかなくておっかなくて、お袋に抱きついてワンワン泣いたよ。
ある日、大人たちが集まって騒然としている。何が起きていたのかわからなかったけど、それが昭和20年8月の玉音放送だった。
我々が子供の頃はもう軍国教育というのもなくて、実態を知ったのはずっと後になってから。特に自分が戦争映画に関わったりするようになって、なるほど、こういうことだったのかと理解することが多かった。理不尽な思いも抱いたけど、どれだけ考えても結論は出なかったね」
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小林旭氏の連載「小林旭 回顧録」第1回全文は、「文藝春秋」2023年6月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。