新連載「小林旭 回顧録」第1回「裕次郎の背中」を一部転載します(「文藝春秋」2023年6月号)。
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車のドアが開いて、まず出てきたのは脚だ
「その日は日活の撮影所にいて、ちょうどスタジオに向かおうとしていたところだった。俳優部の部員さんに『石原裕次郎さんが着きました』と耳打ちされて、世紀の二枚目と言われる男がどんなものか見てやろうと思ってね。
離れたところから眺めていると、車のドアが開いて、まず出てきたのは脚だ。ゴム草履を履いた素足がスッと伸びて、下には海水パンツを穿いていた。髪は坊ちゃん刈りでアロハシャツの裾を前で結んでたな。当時は『湘南の貴公子』なんて呼ばれていたらしいけど、太陽族そのままのスタイルだった。『いらっしゃいませ』って所長やみんなから出迎えられていたよ。これが噂の裕次郎かって。まあ、大したもんだった」
小林旭(84)は石原裕次郎を初めて見た日の光景をコマ送りの映像のように記憶している。
昭和30年代の日活映画黄金期に“マイトガイ”の異名を取り、後に“タフガイ”裕次郎と人気を二分する小林だが、当時はまだ駆け出しの大部屋俳優。デビュー前からスターの座を約束されていた裕次郎とは歴然とした差があった。
「裕次郎は石原慎太郎さんの推薦を受けて、当時、日活のプロデューサーだった水の江滝子さんが連れてきたんだ。俺と違って入社試験は受けていないし、大部屋の下積みも経験していない。
ライバルのように比較されることもあったけど、俺の意識ではそうじゃない。旭と裕次郎ではなく、どこまで行っても裕次郎と旭だ。
役者にランク付けがあるとしたら裕次郎はAクラス。東映の中村錦之助(後の萬屋錦之介)や東宝の三船敏郎、鶴田浩二などのトップの人たちと同列で、俺はいいとこAダッシュさ。それでも、顔を突き合わせれば楽しく飲んだし、間近で様々なことを学ばせてもらった。いい意味で刺激を受けて、若い頃は俺も早くああいう人気者になりたいと思ったもんだよ」
「裕様、裕次郎様」
小林が第3期日活ニューフェイスオーディションに合格したのは昭和30年、17歳の時だった。4歳上の裕次郎が慶應大学を中退し、映画『太陽の季節』で鮮烈なデビューを飾る1年前のことである。同期には“ダンプガイ”こと二谷英明と、後にハリウッドで映画プロデューサーに転じた筑波久子がいた。
「昭和20年代までは、会社の方にも看板スターを祭り上げるという発想がなくて、色々と試行錯誤していた時代だった。『信用ある日活映画』なんて言って、文芸路線を売り物にしていたからね。
その前は活動写真が主流で、長谷川一夫先生や大河内伝次郎さんたちが活躍していた時代だ。俺も子供の頃によく、祭りの季節かなんかになると四角い箱を載っけたリヤカーの見世物を見に行ったよ。掛け小屋の芝居を楽しんだりもしたけど、映像に音がつくようになって映画館が増え出すとそういう文化は衰退してしまった。
日活の前身も日本活動写真株式会社と言って、終戦直後に社名が変わったんだ。のちに松竹、東映、大映、東宝、新東宝の5社協定(新東宝は昭和36年に倒産)にも加わったが、しばらくスター不在の時代が続いた。
空気が一変したのは、昭和30年代。特に裕次郎という近代的な二枚目が現れてからは、会社の意識も世間の見方も大きく変わったよね。
彼が来てから、撮影所ではどっちを向いても裕様、裕次郎様だ。いまではもう見なくなったけど、昔の映画館には次に公開する作品の予告として、10メートルからの大きな看板が掲げられていた。ポーズを決めて看板に収まる裕次郎見たさに、映画館に大勢のファンが集まるんだ。
俺もいつか、そういう看板を出してもらえるようになったらいいだろうなと思ったよ。やっぱりすげえな、スターはいいなあって素直に憧れたね」